銀行業の経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/23 02:09 UTC 版)
「エドムンド・ド・ロスチャイルド」の記事における「銀行業の経営」の解説
大戦中の1942年に父ライオネルは病死しており、以降N・M・ロスチャイルド&サンズの経営は叔父アンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルドが見ていた。復員したエドムンドもN・M・ロスチャイルド&サンズのジュニア・パートナーとなったものの、いまだ銀行業務経験が不足していたのでシニア・パートナー(最高経営責任者)である叔父アンソニーが引き続き経営を主導した。 1955年にアンソニーが脳溢血で倒れ、エドムンドがその代行者となった。アンソニーの側近だったデビッド・コルビルとマイケル・バックスの補佐を受けて銀行経営を主導するようになった。1960年には正式にアンソニーの跡を継いでシニア・パートナーとなる。1956年から弟レオポルドが共同経営者になり、1960年には従兄弟(アンソニーの子)エヴェリンも経営に参画するようになった。さらに1963年には本家のジェイコブ(現在のロスチャイルド男爵)も共同経営者となる。 英国首相ウィンストン・チャーチルやカナダ・ニューファンドランド州首相ジョゼフ・スモールウッド(英語版)の要請でアンソニーが開始したブリティッシュ・ニューファンドランド(BRINCO)(ニューファンドランドの1800万平方キロメートルの土地で資源開発を行う会社)の事業を継承し、ウラニウム地下資源や木材資源の開発を拡大させ、同事業をカナダで最大規模の総合開発に成長させた。また同地にチャーチル滝発電所(英語版)を建設して発電事業も行った。この発電所は個人企業の発電所としては過去最大規模の物となった。 英国内の銀行業の方も順風満帆であり、化学のインペリアル・ケミカル・インダストリーズ、石油のロイヤル・ダッチ・シェル、ダイヤモンドのデ・ビアス、重工業のヴィッカース、紅茶のリプトン、保険のロイヤル・アンド・サン・インシュランス・アライアンス(英語版)などの大企業を財政面から支えた。 1951年に日英関係が回復した後、ロスチャイルド家は日本の大和銀行、住友銀行、横浜銀行、日本興業銀行と取引を開始し、これらの銀行のためにポンド建て信用状を開設してあげていた。そのためエドムンドも日本財界と関係が深くなり、1962年には友人の野村証券社長奥村綱雄らからシティ有力者として東京へ招待された。東京では内閣総理大臣池田勇人、大蔵大臣田中角栄、経済企画庁長官宮沢喜一、日本銀行総裁山際正道、三菱銀行頭取宇佐美洵など政財界要人と友好を深めた。また父ライオネルが創設した庭園エクスベリー・ガーデン(英語版)から取れたシャクナゲを宮内庁に寄贈し、それは皇居の庭園の一郭に埋められた。満開になると昭和天皇もよくそれを観覧したという。 この訪日でエドムンドは日本政財界から外資導入への熱望を寄せられ、その期待にこたえて「パシフィック・シーボード・ファンド」を立ち上げて、日立、テイジン、東洋レーヨンなどの日本企業のためにユーロドル建て社債の発行を行うようになった。1969年にはメリル・リンチや野村証券とともに「東京キャピタル・ホールディングス」を創設し、その監査委員会議長に就任した。これにより毎年1回は役員会や会合などのために訪日するようになった。 資金提供を通じて日本の戦後復興に尽くした功績で勲一等瑞宝章を受勲した 1975年にN・M・ロスチャイルド&サンズを退社して引退生活に入った。ちょうど社内ではジェイコブとエヴェリンの対立が深まっている時期だったため、その仲裁の意味でジェイコブの父ロスチャイルド男爵ヴィクターが代わって頭取となった。
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