清党工作と上海防衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/07 05:58 UTC 版)
孫文死後、楊虎は蒋介石への接近を図り、1926年(民国15年)に江西で国民革命軍特務処処長に任ぜられる。楊は清党(中国共産党粛清)工作を一手に引き受け、「人を殺すこと麻の如く、人の恐るること虎の如し」と評されたという。後に安徽省政府委員も務めた。1927年(民国16年)に蒋が上海クーデター(四・一二政変)を起こすと、楊はこれに参与し、上海警備司令に任ぜられている。このときの楊の清党工作は、陳群と共にその殺戮ぶりで恐れられ、またこの時の功績で、蒋と義兄弟の盟を交わしたとされる。 1928年(民国17年)10月、楊虎は国民政府参軍処参軍に任ぜられる。しかしこの頃から、楊は過去の自己の功績を大いに吹聴したため、蒋介石から疎んじられることになった。1931年(民国20年)11月、楊は中国国民党第4期中央監察委員にしか任ぜられ、翌月、党部中央組織委員となる。しかし、執行委員どころか執行委員候補にすらなれなかったのであり、それまでの楊の経歴から考えれば冷遇とすら言える地位であった。結局、後の第5期、第6期でも、楊は中央監察委員に留まっており、楊は蒋に不満を抱いたとされる。 翌1932年(民国21年)に第1次上海事変が勃発すると、楊は上海保安処処長に任ぜられた。1936年(民国25年)1月、陸軍少将銜を授与され、同年4月には呉鉄城の後任として淞滬警備司令となる。第二次上海事変に際しては竜華を守備し、味方の戦線崩壊後もなお善く抵抗したとされた。戦後の1946年(民国35年)7月に陸軍中将に任ぜられ、11月には制憲国民大会代表に選出されている。1948年(民国37年)2月には、監察院監察委員に任ぜられた。
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