清凉寺の成立とは? わかりやすく解説

清凉寺の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 05:30 UTC 版)

清凉寺」の記事における「清凉寺の成立」の解説

棲霞寺草創から数十年後、宋に渡り五台山一名清凉山)を巡礼した奝然938年 - 1016年)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の寛和元年985年)、台州開元寺現地仏師命じて1体釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インド優填王(うでんおう)が釈迦在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像模刻したもので、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来釈迦像」や、釈迦生き写しとされ、生きているお釈迦様生身釈迦」と呼ばれているものである奝然は、永延元年987年日本に帰国後京都愛宕山を宋の五台山見立て愛宕山麓にこの釈迦如来立像安置する寺・大清凉寺を建立しようとしたが、様々な障害阻まれ、一旦京都船岡山にある蓮台寺釈迦像を運び込むことになる。 奝然は、三国伝来釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教都における中心地としようしたもの思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる大清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺対抗しようとした、という意図込められていたとされる。しかし、延暦寺反対にあい、その願い達しないまま長和5年1016年)、奝然没した彼の遺志継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺釈迦堂に「栴檀の瑞像」(前述三国伝来釈迦像)を安置すると、釈迦堂華厳宗の寺・五台山清凉寺改変された。その後華厳宗の他に天台宗真言宗兼ねるようになるまた、愛宕山白雲寺(現・愛宕神社)の山下別当寺ともなった融通念仏との結びつきができたのは、弘安2年1279年以降のことである。この年大念仏中興上人呼ばれる円覚が、当寺融通念仏勤修している。その後当寺大念仏盛んになり、釈迦堂融通念仏宗道場となった嵯峨大念仏初め執行され時期は、時代下って嘉吉3年1443年)のこととされる。その後応仁の乱本寺伽藍焼失するが、文明13年1481年)に再興された。

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