葺石の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 10:53 UTC 版)
古墳時代中期の5世紀には墳丘規模の拡大がピークに達し、実際の政治構造も古墳群の構成に明らかな影響をおよぼしており、墳墓の形態や規模によって被葬者の社会的地位や身分が示されたとみられるが、5世紀終末に近づくと、巨大な前方後円墳の築造や階層的な巨大古墳群の形成は下火になっていく。 6世紀にはいると、関東地方以西ではほとんどの前方後円墳の規模が縮小し、陪塚がみられなくなり、葺石の使用も少なくなる。また、段築も三段を基本としたものが二段へと減少する傾向が強まる。さらに、関東以外では埴輪も使用されなくなる。これらは、社会における前方後円墳の位置づけに変化が生じてきたことの現れと考えられる。6世紀末葉から7世紀初頭にかけては、大王墓は方墳から八角墳へと変化する。このようななかにあって、東京都府中市の武蔵府中熊野神社古墳のように、7世紀代において葺石で覆われた上円下方墳が関東の地においてみられることは注目に値する。ただし、この時代にはいると、もはや古墳は首長祭祀を巡る中心的な祭祀建造物の座を仏教寺院などに譲ることとなり、技術的には版築の採用が目立つようになる。 終末期古墳においては、墳丘ラインに沿って石を並べる外護列石が認められるようになり、「葺石」と称しうる事例はほとんど見られなくなる。外護列石は墳丘外表面に積み重ねるものではなく、技術的にも葺石構築法の流れを汲むものではない。青木は、これを古代寺院の基壇の装飾法に倣ったものであると指摘している。
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