蒋介石、国民政府への協力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/12 00:14 UTC 版)
しかし同年10月、直隷派指揮官の孫伝芳が上海を占領すると、虞洽卿は淞滬商埠会弁から辞任に追い込まれた。さらに翌1926年(民国15年)6月の上海総商会会長選でも、孫の支持を受ける傅筱庵に敗北してしまう。虞は王曉籟と共に上海商業聯合会を新たに結成し、さらに広東国民政府の蒋介石らとも通じて、孫・傅に対抗した。なお虞洽卿は、かつて流浪して苦境にあった蒋を上海証券物品交易所に匿い、さらに広州の孫文(孫中山)に紹介するなどして、蒋はこれに恩義を感じていたとされる。 1927年(民国16年)3月、国民革命軍の北伐に呼応するための上海労働者による第3次蜂起を虞洽卿も密かに支援し、孫伝芳・傅筱庵を失脚に追い込んだ。この際に成立した上海市臨時政府の政府委員に虞も選出されている。上海クーデター(四・一二政変)により南京に蒋介石が指導する国民政府が成立すると、虞はこれへの資金援助を実施し、その統治の維持や勢力拡大に貢献した。 1937年(民国26年)、盧溝橋事件(七・七事変)に続いて第2次上海事変(八・一三淞瀘抗戦)が勃発すると、虞洽卿は上海難民救済会を組織し、その理事長をつとめるなどしている。日本側からは親日政府への参加を度々呼びかけられたが、虞はこれを一切拒否した。その後も虞は上海に留まって活動を続けたが、身の危険が迫ったことなどもあり、ついに1940年(民国29年)4月に重慶へ逃れている。重慶でも虞は王曉籟らと連携して三民運輸公司を設立し、運輸業界での活動を再開した。運輸会社は中国西南部の各地に建設し、さらに湖南では紡績工場を建設するなど、経営の多角化も進めている。 1945年(民国34年)4月24日、重慶にて病没。享年79(満77歳)。
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