蔣介石との結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 09:34 UTC 版)
その後1920年に、後に中国国民党党首で中華民国の指導者となった蔣介石と上海市内の孫文の旧居で出会い、約7年の交際を経て1927年9月にプロポーズし、11月には日本に滞在していた宋美齢の母親に結婚の承諾を経て12月1日に結婚した。 孫文を継ぎ、中華民国の若き指導者となった蔣介石と、中華民国の名家の出身で、アメリカへ留学し大学を含む高等教育を受け洗練された立ち振る舞いと流暢な英語で欧米でもよく知られた宋美齢の結婚は、中華民国内のみならずアメリカや日本、イギリスなど世界各国で大きく報じられた。2人の結婚のニュースはニューヨーク・タイムズの1面を飾ったほどであったが、一部には「政略結婚」と揶揄する向きもあった。しかし実際は普通の恋愛結婚であった。 12月1日に行われた結婚式は、宋家の客間においてキリスト教形式で行われたが、蔣介石が離婚経験者であることから牧師は立てず、中華キリスト教青年会全国協会総幹事がその代理役を務め、蔡元培が立会人を務めた。なお、蔣介石は亡命先の日本で結婚式を挙げた孫文に倣って、結婚式を日本で挙げたいと考えていたことが明らかになっている。しかしながらこの意向は、日中関係の悪化を懸念していた母親の反対で実現しなかった。 披露宴は、上海の共同租界にあり、上海でも有数の規模を持つ高級ホテルであった大華飯店(マジェスティック・ホテル)内の最大の宴会場で行われ、宴会場には孫文の遺影と中華民国の国旗、党旗が掲げられた。参列者は日本やドイツ、アメリカやベルギーをはじめとする各国の総領事や中華民国の政財界の有力者など1300人を超え、その後2人は浙江省への新婚旅行に向かった。 なお蔣介石は、宋美齢との結婚を両親に承諾させるために、最初の妻や複数いた愛人と別れ、宋美齢とその両親と同じキリスト教に改宗することを宋美齢に約束しなくてはならなかった。蔣介石は実際に結婚後の1929年に上海のメソジスト教会で洗礼を受け、キリスト教徒となった。
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