蔣介石側近へとは? わかりやすく解説

蔣介石側近へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 08:17 UTC 版)

銭大鈞」の記事における「蔣介石側近へ」の解説

1928年民国17年1月からは、銭大鈞は淞滬方面上海など)に駐留し4月からは淞滬警備司令江蘇省政府委員上海特別市党部常務委員などを兼任した6月には江南剿匪司令兼ねている1929年民国18年)春、国民革命軍総司令部参議転じ蔣桂戦争では蔣介石補佐して作戦に加わる。同戦争終結後李宗仁創設した第4集団軍随営軍官学校が蔣により改組されて中央陸軍軍官学校武漢分校となり、銭が同校教育長務めた翌年中原大戦では、教導第3師長に任ぜられて反蔣軍と戦い戦後は第14師長となる。1931年民国20年1月、銭は武漢要塞司令兼ね後任の第14師長陳誠)、12月には中国国民党第4期執行委員候補選出された。しかし同年秋に武漢発生した洪水について、銭は事後対応不備があったために市区大水流し込んでしまい、被害拡大させる失態犯している。 1932年民国21年1月武漢要塞司令部廃止に伴い銭大鈞は第89師長移った同年春に第13軍軍長南昌委員長行営主任昇進し共産党紅軍討伐参加している。1933年民国22年初めに委員長保定行営主任転じ同年末には鄂豫皖剿匪総司令部参謀長として紅軍への包囲・攻撃進めた紅軍長征開始した後の1935年民国24年2月、鄂豫皖剿匪総司令部改組されて委員長武昌行営となり、銭は引き続き参謀長として新たに主任となった張学良補佐している。 1936年民国25年1月国民政府軍委員会委員侍従室が創設されると、銭大鈞は第1処主任侍衛長に任ぜられ、蔣介石警備等を担当した6月に両広事変勃発すると、反蔣兵変を起こした陳済棠配下余漢謀に対して銭は篭絡工作行い、これを陳から離反させることに成功事変鎮圧貢献している。11月には党第5期中央執行委員選出された。12月、銭は蔣介石随従して西安訪問したが、その際張学良楊虎城西安事件起こす。銭は蔣を警護しようとしたところ、銃撃され右肺貫通重傷負ったが、辛うじて一命取り留めた事件解決後の翌年2月には、職務復帰している。

※この「蔣介石側近へ」の解説は、「銭大鈞」の解説の一部です。
「蔣介石側近へ」を含む「銭大鈞」の記事については、「銭大鈞」の概要を参照ください。

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