陳誠との交友とは? わかりやすく解説

陳誠との交友

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 02:48 UTC 版)

羅卓英」の記事における「陳誠との交友」の解説

1914年民国3年)に大埔県官学堂を卒業し大埔中学進学する。しかし軍人の道を志すようになり、1918年民国7年)に保定陸軍軍官学校受験この年落第したが、その翌年第8期砲兵科として合格した。この時に同期陳誠周至柔意気投合し義兄弟契りを結ぶ1922年民国11年)に卒業する故郷戻り大埔中学教務主任となる。また、湖山中学創設した。 まもなく孫文らによる革命羅卓英同調し1923年民国12年)には潮参謀に任ぜられる。1925年民国14年8月陳誠紹介国民革命軍加わり東征陳炯明討伐)で軍功をあげた。1926年民国15年7月からは北伐従軍し翌年4月、第21師長昇進した陳の要請を受ける形で、同師参謀処処長に任ぜられる。その後も陳・羅の第21師は北伐孫伝芳撃破などに貢献し1928年民国17年)春、陳が陸海空軍総司令部警衛司令昇進すると、羅もその下で警備師の団長務めた北伐終了後陳誠部隊再編により第11師となり、陳は副師長羅卓英は同師参謀長に任ぜられた。翌年7月、陳は師長昇進し、羅も第33旅旅長、さらに副師長昇進した。羅は中下級の軍官黄埔軍官学校卒業生次々と入れ替えて戦闘力の向上に努力しその結果、第21師は1930年民国19年)の中原大戦など反蒋介石との戦い顕著な活躍見せることになる。戦後、陳は第18軍軍長、羅は同軍参謀長それぞれ昇進した翌年に羅は第11師長となっている。 1931年民国20年5月羅卓英は第11師を率い江西省での第3次中国共産党紅軍掃討作戦参加した。しかし、紅軍巧みゲリラ戦翻弄され大きな消耗損害強いられている。その後陳誠推薦により、羅は第18軍軍長兼第11師長昇進した1933年民国22年)には第5軍軍長昇進し第4次共産党掃討参加したが、この時も羅は苦戦している。しかし同年9月第5次掃討にも参加し最終的に紅軍長征追い込んだ1935年民国24年9月、羅は第18軍軍長昇進し、翌1936年民国25年)に両広事変勃発する平定桂軍前敵総指揮に任ぜられ、新広西派新桂系)軍を撃破した同年9月には広州行営弁公庁主任参謀長代理、粤漢鉄路警備司令などを務めた

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