南京国民政府/汪兆銘政権成立
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「第二次世界大戦」の記事における「南京国民政府/汪兆銘政権成立」の解説
日中戦争の勃発に伴い、中華民国の蔣介石は日本との徹底抗戦の構えを崩さず、日本側も首相の近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした近衛声明を出し、和平の道は閉ざされた。汪兆銘は「抗戦」による民衆の被害と中華民国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となった。汪は、早くから「焦土抗戦」に反対し、全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた。 1938年3月から4月にかけて湖北省漢口で開かれた国民党臨時全国代表大会では、国民党に初めて総裁制が採用され、蔣介石が総裁、汪が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言された。すでに党の大勢は連共抗日に傾いており、汪としても副総裁として抗日宣言から外れるわけにはいかなかったのである。 一方、3月28日には南京に梁鴻志を行政委員長とする親日政権、中華民国維新政府が成立している。こうした中、この頃から日中両国の和平派が水面下での交渉を重ねるようになった。この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」へと発展した。 6月に汪とその側近である周仏海の意を受けた高宗武が渡日して日本側と接触。高宗武自身は日本の和平の相手は汪以外にないとしながらも、あくまでも蔣介石政権を維持した上での和平工作を考えていた。10月12日、汪はロイター通信の記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蔣介石との対立は決定的となった。 1939年3月21日、暗殺者がハノイの汪の家に乱入、汪の腹心の曽仲鳴を射殺するという事件が起こった(汪兆銘狙撃事件)。蔣介石が放った暗殺者は汪を狙ったが、その日はたまたま汪と曽が寝室を取り替えていたため、曽が犠牲になった。ハノイが危険であることを察知した日本当局は、汪を同地より脱出させることとした。4月25日、影佐と接触した汪はハノイを脱出し、フランス船と日本船を乗り継いで5月6日に上海に到着した。ハノイの事件は、汪が和平運動を停止し、ヨーロッパなどに亡命して事態を静観するという選択肢を放棄させるものとなった。 日本は蔣介石に代わる新たな交渉相手として、日本との和平交渉の道を探っていた汪の擁立を画策した。しかし1940年1月に、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が和平運動から離脱して「内約」原案を外部に暴露する事件が生じた。最終段階で腹心とみられた部下が裏切ったことに汪は大いに衝撃を受けたが、日本側が最終的に若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった。 汪は日本の軍事力を背景として、北京の中華民国臨時政府や南京の中華民国維新政府などを結集し、1940年3月30日に蔣介石とは別個の国民政府を南京に樹立、ここに「南京国民政府」が成立した。 汪は自らの政府を「国民党の正統政府」であるとして、政府の発足式を「国民政府が南京に戻った」という意味を込めて「還都式」と称した。国旗は、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを記した黄色の三角旗を加えたもの、国歌は中国国民党党歌をそのまま使用し、記念日も国恥記念日を除けば、国民党・国民政府のものをそのまま踏襲した。 政府発足後に、イタリア王国やフランスのヴィシー政権、満州国などの枢軸国、バチカンなどが国家承認した。しかし蔣介石政権とのしがらみがあったドイツが最終的に承認したのは1941年7月になってからだった。さらに日本との間で日泰攻守同盟条約を結んでいたタイ王国が汪の南京国民政府を承認した のは、対英米戦が始まってからの1942年7月になってからであった。
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