南京国民政府と反蔣運動
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汪兆銘は南京の新政府で、国民政府委員、軍事委員会主席団委員等の地位に就いた。汪ら左派は再統合の主導権を握るために、旧西山会議派など右派の支配下にある国民党中央特別委員会の解散を要求したが、受け容れられなかった。そこで汪は抗議の意を込めて国民政府の役職を辞任し、他の左派要人とともに広州に赴いた。しかし、その広州では左派を支持する張発奎の軍が国民党中央特別委員会を支持する軍を襲撃する事件が発生し、中央特別委員会は、これは左派が共産党と内通して起こしたものだと喧伝した。 さらに広州では、1927年12月11日の中国共産党によって広州蜂起(広東コミューン事件)が引き起こされる。これは共産党の葉剣英らが指導し、張発奎軍の一部を離反させて武装蜂起し、蘇兆徴を主席とするソビエト政府を樹立した事件である。これもまた、右派にとっては汪ら左派が共産党と内通しているとの格好の宣伝材料となった。汪兆銘は右派による敵視も含め、政治混乱を招いた責任をとるとして政界からの引退を表明、翌1928年、フランスに旅立った。 1928年1月、機能不全に陥った国民党からの復職要請を受けた蔣介石は再び国民革命軍総司令に復活した。2月には国民党第二期四中全会が開かれ、国民革命軍委員会主席となり、3月には中央政治会議主席に就任した。軍・政の実権を掌握した蔣介石は、4月に北伐の再開を宣言し、国民革命軍を蔣介石・馮玉祥・閻錫山・李宗仁の4つの集団軍に再編した。6月8日、国民革命軍(北伐軍)は逃亡した北洋軍閥軍に代わって北京入城を果たした。北伐にひとまず成功して中国統一を成し遂げた蔣介石であったが、やがて国内では、独裁の方向に動き出した蔣と、その動きに反発する反蔣派との対立が顕著になった。祖国を離れた汪兆銘は情報にうとくなり、その影響力も以前より低下した。 1928年10月、国民党は中央常務委員会をひらき、立法・行政・司法・監察・考試の五院を最高機関とし、民衆運動を制限して「訓政」による一党独裁政治をおこなう南京国民政府を正式に発足させ、蔣介石が主席となった。12月には、6月の張作霖爆殺事件によって日本への憤懣をつのらせていた満洲の張学良も蔣介石の陣営に加わり、これ以降、中国全体を代表する唯一の中央政府となった。 しかし、この政府は反面では新軍閥の不安定な連合にすぎなかった。実際、軍の中央集権化に抵抗して広西派の軍閥李宗仁・白崇禧が反旗を翻したのを皮切りに、閻錫山・馮玉祥・張発奎をはじめとして各地で大規模な反蔣運動が起こった。 一方、汪兆銘の立場に近いのが民衆運動の推進など国民党改組時の方針の継承を強く主張する陳公博らの左派(改組派)で、雑誌『革命評論』などを発行して青年党員への影響は大きかったし、その一方では右派の旧西山会議派や胡漢民・孫科らの広東派といったグループも無視できない力を有しており、蔣介石の優位は必ずしも絶対ではなかった。共産党の毛沢東は湖南で農民革命の指導に取りかかっていた。 こうした不穏な情勢のなか、1929年から1930年にかけて、4度にわたって反蔣戦争が起こったのであった。改組派は、このうちの第一戦では傍観の姿勢を崩さなかったが、第二戦では反蔣の立場を鮮明にして汪兆銘待望論を唱えた。外遊していた汪は反蔣派から出馬を請われ、1929年10月、ひそかにフランスから香港に戻り、権力の回復に努め、第三戦では積極的に関与した。1930年2月に勃発した第四戦は壮絶な戦いとなった。 1930年9月、北平(北京)で閻錫山を主席とする新国民政府が樹立され、各地の反蔣の政客がぞくぞくと北平に集まった。ここに集まったのは、政治的には極左から極右までを含む雑多な人びとであった。そのなかに汪兆銘のすがたもあったが、折しも、この年の5月より蔣介石率いる中央政府軍とのあいだで中原大戦と呼ばれる大規模な内戦が生じ、最終的に張学良の東北軍が中央政府側に立ったこともあって、北平の国民政府は戦局の不利を悟って下野を表明し、政権は瓦解した。汪兆銘は、蔣介石派によるファシズム色の強い「訓政時期約法」(1929年綱領確定、1931年制定)に対し、民主的な約法として「太原約法」の制定をはかったが反蔣連合の敗北とともに頓挫した。汪は国民党から除名処分を受けたが、この頃には、かつての国民党左派の指導者としての性格はだいぶ失われていた。また、当時の汪兆銘を評して「鵺的」とする見解もある。 汪はその後も反蔣運動をつづけ、しばらく香港に蟄居したのち、1931年5月、反蔣派(広東派)の結集する広東臨時国民政府に参画した。南京政府には蔣介石・宋子文・張静江ら浙江財閥を背景にした一派が集い、広東政府には汪のほか、孫科・林森・許崇智・唐紹儀ら反蔣勢力が集まり、広西派の軍人も反蔣介石の動きを強めた。
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