南京国民政府と反蔣運動とは? わかりやすく解説

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南京国民政府と反蔣運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:36 UTC 版)

汪兆銘」の記事における「南京国民政府と反蔣運動」の解説

汪兆銘南京新政府で、国民政府委員軍事委員会主席団委員等地位就いた。汪ら左派再統合主導権を握るために、旧西山会議派など右派支配下にある国民党中央特別委員会解散要求したが、受け容れられなかった。そこで汪は抗議の意を込めて国民政府役職辞任し、他の左派要人とともに広州赴いた。しかし、その広州では左派支持する張発奎の軍が国民党中央特別委員会支持する軍を襲撃する事件発生し中央特別委員会は、これは左派共産党内通して起こしたものだと喧伝した。 さらに広州では、1927年12月11日中国共産党によって広州蜂起広東コミューン事件)が引き起こされる。これは共産党葉剣英らが指導し張発奎軍の一部離反させて武装蜂起し兆徴を主席とするソビエト政府樹立した事件である。これもまた、右派にとっては汪ら左派共産党内通しているとの格好宣伝材料となった汪兆銘右派による敵視含め政治混乱招いた責任をとるとして政界からの引退表明、翌1928年フランス旅立った1928年1月機能不全陥った国民党からの復職要請受けた蔣介石は再び国民革命軍総司令復活した2月には国民党第二期四中全会開かれ国民革命軍委員会主席となり、3月には中央政治会議主席就任した軍・政実権掌握した蔣介石は、4月北伐再開宣言し国民革命軍蔣介石馮玉祥閻錫山李宗仁4つ集団軍再編した6月8日国民革命軍北伐軍)は逃亡した北洋軍閥軍に代わって北京入城果たした北伐ひとまず成功して中国統一成し遂げた蔣介石であったが、やがて国内では、独裁方向動き出した蔣と、その動き反発する反蔣派との対立顕著になった。祖国離れた汪兆銘情報うとくなり、その影響力も以前より低下した1928年10月国民党中央常務委員会をひらき、立法・行政・司法監察考試五院最高機関とし、民衆運動制限して「訓政」による一党独裁政治をおこなう南京国民政府正式に発足させ、蔣介石主席となった12月には、6月張作霖爆殺事件によって日本への憤懣つのらせていた満洲張学良蔣介石陣営加わり、これ以降中国全体代表する唯一の中央政府となった。 しかし、この政府反面では新軍閥の不安定な連合にすぎなかった。実際、軍の中央集権化抵抗して広西派軍閥李宗仁白崇禧反旗を翻したのを皮切りに閻錫山馮玉祥張発奎はじめとして各地大規模な反蔣運動起こった一方汪兆銘立場に近いのが民衆運動推進など国民党改組時の方針継承強く主張する陳公博らの左派改組派)で、雑誌革命評論』などを発行して青年党員への影響大きかったし、その一方で右派の旧西山会議派胡漢民孫科らの広東派といったグループ無視できない力を有しており、蔣介石優位は必ずしも絶対ではなかった。共産党毛沢東湖南農民革命指導取りかかっていた。 こうした不穏な情勢のなか、1929年から1930年にかけて、4度わたって反蔣戦争起こったであった改組派は、このうち第一戦では傍観姿勢を崩さなかったが、第二戦では反蔣の立場鮮明にして汪兆銘待望論を唱えた外遊していた汪は反蔣派から出馬請われ1929年10月ひそかにフランスから香港戻り権力回復努め第三戦では積極的に関与した1930年2月勃発した第四戦は壮絶な戦いとなった1930年9月北平北京)で閻錫山主席とする新国民政府が樹立され各地の反蔣の政客ぞくぞく北平集まった。ここに集まったのは、政治的に極左から極右までを含む雑多な人びとであった。そのなかに汪兆銘のすがたもあったが、折しもこの年5月より蔣介石率い中央政府軍とのあいだで中原大戦呼ばれる大規模な内戦生じ最終的に張学良東北軍中央政府側に立ったこともあって、北平国民政府戦局の不利を悟って下野表明し政権瓦解した汪兆銘は、蔣介石派によるファシズム色の強い「訓政時期約法」(1929年綱領確定1931年制定)に対し民主的な約法として「太原約法」の制定はかったが反蔣連合の敗北とともに頓挫した。汪は国民党から除名処分受けたが、この頃には、かつての国民党左派指導者としての性格はだいぶ失われていた。また、当時汪兆銘評して鵺的」とする見解もある。 汪はその後も反蔣運動をつづけ、しばらく香港蟄居したのち、1931年5月、反蔣派(広東派)の結集する広東臨時国民政府参画した。南京政府には蔣介石宋子文張静江浙江財閥背景にした一派集い広東政府には汪のほか、孫科林森許崇智唐紹儀ら反蔣勢力集まり広西派軍人も反蔣介石動き強めた

※この「南京国民政府と反蔣運動」の解説は、「汪兆銘」の解説の一部です。
「南京国民政府と反蔣運動」を含む「汪兆銘」の記事については、「汪兆銘」の概要を参照ください。

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