馮玉祥、蔣介石との対立
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河南省統治を開始した馮玉祥は建国軍の名称を解消しようとした。これに反発した樊鍾秀は馮玉祥との確執を深め、李雲竜と結託して反馮玉祥の準備を進める。1928年(民国17年)4月、第2集団軍が省北部での直魯聯軍との戦闘に追われ防備が手薄だった隙をついて、自身の部隊や民団を集め挙兵。李山林の部隊を以て禹県・登封を確保し、鞏県・偃師、更に趙振江の部隊を以て洛陽の孝義兵工廠へと向かったが、4月29日、宋哲元の第4集団軍や石友三の第1方面軍第5軍に撃退される。両軍は二手に分かれ、宋哲元は臨汝・偃師、石友三は禹県・密県と追撃。樊鍾秀は自身の学び舎である少林寺を司令部とし、僧侶たちの協力を得ていたが、5月4日(3月15日とも)に南下して来た石友三の第5軍によって登封は陥落。少林寺は石友三配下の第53師第175旅旅長の蘇明啓によって焼き払われた。その後も湖北省の方城や棗陽にて抵抗を続けていたが、10月2日、安徽省西部に撤退し蚌埠に逃れた。11月(翌年春とも)、蒙城にて下野を宣言し、しばらく上海でアヘン中毒治療に専念した。この直前、蔣介石から小切手を受け取り、南京にて現金に交換しようとしたが、職員が事情を知らず交換が出来なかった。樊鍾秀は蔣介石に失望し、そのことを知った汪兆銘より飛行機で一度は対立した馮玉祥のもとへと送り届けられた。一方、残りの部隊は独立師師長の王茂斉が司令官代理となり、山東省膠東半島で日本の支援を受けしばらく兵力を温存していたが、樊鍾秀から何の指示も受けなかったため、馮玉祥の手により武装解除された。一部は武装解除を拒み、南陽で秘密結社「刀客」に加わった。 蔣介石は樊鍾秀を取り込もうと1929年(民国18年)10月21日、軍事参議院参議に任じ、11月6日に陝西剿匪司令に、1930年(民国19年)2月には豫陝辺防軍司令に任じ、河南省荊紫関へ移るよう命じた。しかし樊鍾秀は蔣介石を拒絶すると3月、臨潁県に戻り、旧所属部隊を再編して総司令を自称した。同年5月、馮玉祥らが反蔣介石の中原大戦を発動すると、樊鍾秀もこれに加わり、討蔣第8方面軍総司令に任ぜられている。しかし徐源泉・王金玉・上官雲相の3個軍の挟撃を受け、臨潁から許昌に撤退した。5月25日(6月13日とも)、樊鍾秀は戦線視察中に許昌南門外で蔣軍の空軍の爆撃に遭い、死亡した。享年43。第8方面軍の指揮は総参謀長の閻鳳崗が代理を務めた。 遺体は馮玉祥の手で北京に運ばれ、西山碧雲寺(中国語版)に葬られた。
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