馮玉祥、蔣介石との対立とは? わかりやすく解説

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馮玉祥、蔣介石との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 15:10 UTC 版)

樊鍾秀」の記事における「馮玉祥、蔣介石との対立」の解説

河南省統治開始した馮玉祥建国軍の名称を解消しようとした。これに反発した樊鍾秀馮玉祥との確執深め李雲竜結託して馮玉祥準備進める。1928年民国17年4月第2集団軍が省北部での直聯軍との戦闘追われ防備手薄だった隙をついて、自身部隊民団集め挙兵李山部隊を以て禹県登封確保し鞏県偃師、更に趙振江の部隊を以て洛陽孝義兵工廠へと向かったが、4月29日宋哲元の第4集団軍石友三第1方面軍第5軍撃退される両軍二手分かれ宋哲元臨汝偃師石友三禹県密県追撃樊鍾秀自身学び舎である少林寺司令部とし、僧侶たちの協力得ていたが、5月4日3月15日とも)に南下して来た石友三第5軍によって登封陥落少林寺石友三配下の第53師第175旅旅長の明啓によって焼き払われた。その後湖北省方城棗陽にて抵抗続けていたが、10月2日安徽省西部撤退し蚌埠逃れた11月翌年春とも)、蒙城にて下野宣言し、しばらく上海アヘン中毒治療専念した。この直前蔣介石から小切手受け取り南京にて現金交換しようとしたが、職員事情知らず交換出来なかった。樊鍾秀蔣介石失望しそのこと知った汪兆銘より飛行機一度対立した馮玉祥のもとへと送り届けられた。一方残り部隊独立師長王茂斉が司令官代理となり、山東省膠東半島日本の支援を受けしばらく兵力温存していたが、樊鍾秀から何の指示も受けなかったため、馮玉祥の手により武装解除された。一部武装解除拒み南陽秘密結社「刀客」に加わった蔣介石樊鍾秀取り込もう1929年民国18年10月21日軍事参議院参議任じ11月6日陝西剿匪司令に、1930年民国19年2月には豫陝辺防軍司令に任じ河南省荊紫関へ移るよう命じた。しかし樊鍾秀蔣介石拒絶する3月臨潁県戻り、旧所属部隊再編し総司令自称した同年5月馮玉祥らが反蔣介石中原大戦発動すると、樊鍾秀もこれに加わり、討蔣第8方面軍総司令に任ぜられている。しかし徐源泉・王金玉上官相の3個軍の挟撃を受け、臨潁から許昌撤退した5月25日6月13日とも)、樊鍾秀戦線視察中に許昌南門外で蔣軍の空軍爆撃遭い死亡した享年43第8方面軍指揮総参謀長の閻崗が代理務めた遺体馮玉祥の手北京運ばれ西山碧雲寺中国語版)に葬られた。

※この「馮玉祥、蔣介石との対立」の解説は、「樊鍾秀」の解説の一部です。
「馮玉祥、蔣介石との対立」を含む「樊鍾秀」の記事については、「樊鍾秀」の概要を参照ください。

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