馮玉祥配下として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 07:18 UTC 版)
最初は学問を志していたが、1912年(民国元年)3月に募兵に応じ、左路備補軍第2営営長を務めていた馮玉祥の下で兵士となった。以後、馮玉祥に随従して各地の戦闘に参加し、馮治安は軍功をしばしば挙げた。1920年(民国9年)、馮玉祥率いる第16混成旅が第11師に拡編されると、馮治安は学兵営営長に昇進している。1924年(民国13年)10月の北京政変(首都革命)でも馮治安は軍功をあげ、国民軍において衛隊旅旅長に昇進した。1926年(民国15年)春に馮玉祥が「赤化」批判を受けて下野、他の北京政府軍に包囲・攻撃される。この際に馮治安は衛隊旅を率いて粘り強く抗戦、国民軍の西北方面への撤退にも貢献した。 同年9月、馮玉祥が五原誓師を行い国民聯軍総司令に就任すると、馮治安は師長に昇進、12月には西安に移駐した。1927年(民国16年)5月、国民聯軍が国民革命軍第2集団軍に改組されると、馮治安は第14軍軍長に昇進、部隊を率いて河南省信陽に進軍する。同年9月、いったんは国民政府側に易幟した靳雲鶚が再び北京政府に戻ろうと図ったため、馮治安は孫良誠らの友軍と協力して靳の軍を即座に殲滅した。まもなく、この時期に馮玉祥に降伏した秦徳純が第14軍軍長となり、馮治安は番号を改められて第23軍軍長となった。
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