李宗仁弾劾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 16:20 UTC 版)
「1954年中華民国総統選挙」の記事における「李宗仁弾劾」の解説
国共内戦敗北の責任を負って総統を辞職した蔣介石に代わり李宗仁が代理総統を務めていたが、蔣介石との対立により香港へ逃亡しアメリカへ亡命した。蔣介石は総統への復任を宣言したものの、李宗仁の辞職手続きが完了しておらず、新旧総統の交代時に法理問題が発生する可能性があったため、国大代表は総統選挙前に李宗仁の弾劾を決定する。 辞職手続きが完了していない代理総統の1954年2月19日に国大代表が招集されると、3月11日に弾劾手続きが採られた。 当時の法律規定では総統或いは副総統の弾劾手続きは国大代表の間接選挙方式とされ、国大代表の出席者の三分の二以上の決議により弾劾が有効とされた。法定定員3,045名の内、1948年に2,841名が選出されていたが、遷台した国大代表は半数に満たず、香港やアメリカ、東南アジアなど世界各地より台北に参集したのは1,578名に過ぎなかった。その内弾劾決議に投票した国大代表は1,486名、1,403票の賛成票により弾劾決議案は採択され、残任期間が短いために補選を行わないことが付帯決議されている。
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