国民運動副事務総長から国民運動事務総長へ
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「アドルフォ・スアレス」の記事における「国民運動副事務総長から国民運動事務総長へ」の解説
スアレスは、1973年にRTVEの社長を辞任すると、ビジネスの世界に飛び込んだ。やがて1975年3月にエレロ・テヘドールが国民運動事務総長に就任すると、スアレスはエレロ・テヘドールによって国民運動副事務総長に任命された。しかし、エレロ・テヘドールが同年6月に交通事故により非業の死を遂げると、後任の国民運動事務総長にホセ・ソリス・ルイスが就任したため、スアレスは国民運動副事務総長を辞任した。また、スアレスはこの年、エレロ・テヘドールの命により結成された御用政党、スペイン国民連合(UDPE)の党首に就任している。 1975年11月にフランコが死去すると、スアレスはカルロス・アリアス・ナバーロ内閣の国民運動事務総長として初入閣を果たした。この人事は国王フアン・カルロス1世の意向であったと言われている。1976年3月、内務大臣であったマヌエル・フラガ・イリバルネが西ドイツへ遊説に向かうと、スアレスは内務大臣代行となった。その時ビトリア=ガステイスにおいて、警官隊によるデモ隊への発砲事件が発生した。ビトリア事件と呼ばれるこの事件では、多数の死傷者が発生し、通常のフランコ体制の対応では、軍隊を現地に派遣してデモ隊を鎮圧し、戒厳令を敷くのが通例であったが、スアレスはこれらの処置をせず、警官隊の非を認める声明を発表した。この選択が功を奏し、短時間で問題解決に至った。スアレスのこの判断は、政治家としての評価を高めることになったのである。 1976年5月には、アジェテの40人と呼ばれる国民評議会の常任評議員に選出され、翌6月には国会において政治結社法案の支持演説を国民運動事務総長の名において行なった。スアレスは、「スペインは昔から多元的な社会であったとし、政党と呼ぶかどうかはともかく、知識人の間だけでなく、労働者の間でも組織化された勢力が存在する。政治結社法を成立させることは、街では普通に存在していることを政治社会においても普通にするだけのことである」と演説したのである。このスアレスによる演説は高く評価され、その結果、政治改革法は賛成337票、反対92票、棄権25票で可決・成立した。また、この演説について報告を受けた国王は、他の者同様にスアレスを高く評価し、この演説が次期首相となる決め手になったと言われている。
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