国民革命と国共合作の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 04:43 UTC 版)
1922年頃からコミンテルンの指示で、陳独秀は個人としては反対であったが、党指導者としての立場で、孫文率いる国民党との合作を模索するようになり、国民党と共闘して国内の軍閥と国外の帝国主義を打倒する「国民革命」を提唱する。1924年には共産党員が国民党に入党する形で第一次国共合作が成立し、陳独秀も国民党のメンバーとなった。しかし1925年に孫文が死去し、1926年以降には反共産党の姿勢を強める蒋介石が指導権を獲得する。陳独秀は蒋介石の北伐をはじめとする軍事主義的な強硬路線を激しく批判するが、1927年4月の上海クーデターの発生によって共産党は徹底的に弾圧される。窮地に立った陳独秀は、またもやコミンテルンからの不適切な指示に従い、国民党内で蒋介石に敵対する汪兆銘(汪精衛)の武漢国民政府と連合して国共合作の維持をはかろうとするが、武漢政府の政権基盤自体が脆弱だった上に、汪精衛も土地改革などをめぐって共産党との対立を明確にしはじめ、1927年の7月に国共合作は最終的に解体する。陳独秀は汪精衛との連合の失敗を、コミンテルンから「右傾日和見主義」と厳しく批判されて総書記を辞任する。しかし、「右傾日和見主義」路線はコミンテルンからの指令であり、陳独秀の立場ではなかった。
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