国民革命軍での昇進
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1926年(民国15年)7月より、関麟徴は国民革命軍の北伐に営長として従軍する。その後、軍功を次々とあげて急速に昇進し、北伐終了時点で早くも第32旅旅長に昇進した。そして1929年(民国18年)5月には、新編第5師副師長に任ぜられている。この時まだ、24歳の若さであった。 1930年(民国19年)5月、中原大戦において関麟徴とその部隊は第2教導師(師長:張治中)第1団として再編され、関が団長となった(ただし、軍縮・再編に伴う措置であり、降格人事ではない)。関は河南省東部で、反蒋介石軍を相手に寡兵で勇戦し、蒋軍の勝利に貢献した。この軍功により第2旅旅長となる。まもなく石友三が反蒋クーデターを起こすと、関は第4師第11旅旅長として鎮圧に加わり、ここでも敵軍殲滅に貢献した。1932年(民国21年)からは第4師独立旅旅長として、鄂豫皖革命根拠地の紅軍討伐に従事している。同年末、第17軍第25師師長に昇進した。 1933年(民国22年)3月の長城戦役(中国語版)では、関麟徴も古北口(中国語版)に向かい、日本軍と激戦を繰り広げたが、負傷し後送されたため、第25師第73旅旅長の杜聿明が副師長として指揮を代行。5月に塘沽協定が結ばれ、中国軍が一定地域からの撤退を余儀なくされた際には、関はこれに激しく反発し、何応欽の説得でようやく撤退を承諾している。その後、山西省へ異動し、1936年(民国25年)には剿匪軍第11縦隊司令官に任ぜられ、陝西省、甘粛省方面に向かった。
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国民革命軍での昇進
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1926年(民国15年)、万耀煌は夏斗寅の命を受けて広東省で蒋介石に対面、夏の易幟について話し合った。そして夏の第21混成旅は易幟して国民革命軍鄂軍第1師となり、まもなく独立第14師と改編、万は副師長兼参謀長に任ぜられている。以後、夏に従って北伐に従軍した。翌1927年(民国16年)4月、夏が反共クーデターを起こして葉挺に敗北、安徽省安慶に逃れて新編第10軍に再編されると、万は同軍第1師師長となった。同年9月、新編第10軍が第27軍に改組されると、第1師は第65師に改められ、引き続き万が師長を務めている。北伐後も夏の配下として反蒋軍と戦闘を交えた。 1931年(民国20年)1月、万耀煌は陸軍第13師師長に任ぜられ、夏斗寅の指揮下で紅軍(中国共産党)討伐に従事したが、このときは大敗を喫した。1933年(民国22年)、第13師を率いて江西省に移り、撫州警備司令兼第8縦隊副指揮官として引き続き紅軍討伐に従軍している。1935年(民国24年)4月、陸軍中将銜を授与され、10月には第25軍軍長兼第5縦隊司令、第2綏靖区指揮官に昇進した。翌年冬、西安事件が勃発すると、蒋介石に随従していた万も張学良らによって一時拘禁されている。 1937年(民国28年)、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、万耀煌は上海防衛戦(第二次上海事変)に参戦した。翌年3月、軍事委員会将官研究班主任兼軍官訓練団教育長に任ぜられる。さらに第15軍団軍団長兼武漢衛戍副総司令として武漢防衛戦(日本側呼称:武漢作戦)に当たったが敗北した。1939年(民国28年)1月、貴州省遵義で陸軍大学教育長に就任し、後に同大学を重慶に移転させている。1942年(民国31年)6月、成都で中央陸軍軍官学校教育長に就任した。1945年(民国34年)6月、中国国民党第6期中央監察委員に選出されている。
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国民革命軍での昇進
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1926年(民国15年)7月より蔣鼎文は北伐に従軍し、総司令部直属傷兵団少将団長となる。翌年4月、蔣介石により南京に国民政府が成立すると、蔣鼎文は南京警備団長に起用された。その後、浙東警備司令兼寧波市公安局局長に転じ、9月、第1軍第1師師長となっている。1928年(民国17年)1月、第1軍副軍長兼第1師師長に昇進し、さらに軍長代理となった。 北伐終了後、軍縮に伴い、蔣鼎文は同年10月に第9師師長となったが、翌1929年(民国18年)に第2軍軍長に再び昇進した。1930年(民国19年)の中原大戦に参戦し、蔣介石勝利後に蔣鼎文は洛陽に駐留し、隴海路西段警備司令を兼任している。1932年(民国21年)1月の第1次上海事変に際し、蔣鼎文は第19路軍を支援して日本軍と戦い、事変後に上海の守備を担当した。 同年冬、武漢に部隊を率いて移り、長江七省水警総局局長を兼任した。1933年(民国22年)からは中国共産党(紅軍)討伐に従事し、五省剿匪軍北路前敵総指揮、東路剿匪総司令を歴任する。また、同年11月に発生した福建事変の鎮圧にも参加し、翌年11月、駐閩綏靖公署主任に任命される。1935年(民国24年)5月、二級上将位を授与され、12月には、中国国民党第5期中央執行委員に選出された。
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