国民革命軍での再起、憲兵練成、甘粛統治
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湖南省では、陸軍士官学校時代の同級生だった賀耀組の引き立てを受け、1925年(民国14年)7月に、湖南陸軍第1師顧問兼軍官講習所所長に任ぜられた。1926年(民国15年)9月、賀が国民革命軍に易幟し、独立第2師師長となると、谷は同師副師長兼第1旅旅長となる。そして賀に随従して江西省の九江攻略、さらに翌年3月の南京攻略に貢献した。4月、独立第2師が第40軍に拡充されると、谷は南京戒厳司令代理に昇格した。このとき、蒋介石の知遇を受けている。 1928年(民国17年)2月、谷正倫は南京衛戍副司令となった。同年5月、済南事件が勃発し、日本側から責任者と指弾された南京衛戍司令賀耀組が罷免に追い込まれてしまう。これにより、谷が後任の司令に昇進し、首都警備の任を委ねられることになった。以後、谷は憲兵部隊の練成と組織に尽力することになる。 まず谷正倫は蘇州で憲兵軍官講習所と憲兵教練所を設立し、1932年(民国21年)1月、軍政部に属する形で憲兵司令部が創設されると司令に就任した。1934年(民国23年)には憲兵学校を創設し、蒋介石が校長、谷が教育長となり、谷が実際の運営を担った。日中戦争(抗日戦争)勃発後の1937年(民国26年)9月、谷は軍事委員会軍法執行副監を兼任する。また、首都の内陸部移転に伴い、湘鄂川黔辺区綏靖公署主任も兼ねている。1940年(民国29年)12月まで谷は憲兵司令を務めていたが、それまでに憲兵は30個団に拡充された。 この月に、谷正倫は中国共産党の陝甘寧辺区封鎖の任を蒋介石から委ねられ、甘粛省政府主席に任命される。以後、1946年(民国35年)10月まで同省政府主席を務め、1942年(民国31年)10月には甘新公路督弁も兼任している。この間に谷は、「新県制」を実行するなどして国民政府中央の統制を甘粛省にもたらす一方で、現地回族への福祉充実に努めて民族間の対立緩和を図り、さらに水利建設や農・林・牧業振興、土木事業展開でも顕著な成果をあげた。甘粛省省会の蘭州へは、アメリカ副大統領ヘンリー・A・ウォレスも参観のため訪れており、谷の良好な治績を絶賛している。
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