国民革命軍での台頭とは? わかりやすく解説

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国民革命軍での台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 02:48 UTC 版)

朱紹良」の記事における「国民革命軍での台頭」の解説

1923年民国12年)、朱紹良広州孫文孫中山)に合流した3月大元帥大本営参謀に任ぜられ、翌年2月広東省楊庶堪に省政府顧問として招聘されたが、6月辞任上海去っている。1926年民国15年4月広東に再び赴き、蒋介石対面し国民革命軍第4軍10参謀長に任ぜられた。そのまま北伐参加し北京政府軍との戦いで軍功をあげた。 その後北伐軍武漢攻略武漢国民政府成立したが、蒋介石汪兆銘汪精衛)の間で対立発生する朱紹良は蒋を支持している。1927年民国16年2月国民革命軍総司令武昌行営参謀長に任ぜられ、翌年第9軍軍長に任ぜられた。上海クーデター四・一政変)の後、国民革命軍総司令部参謀長昇進したが、8月に蒋が一時的な下野追い込まれたため、やむなく辞任している。 翌1928年民国17年1月蒋介石復帰に伴い2月朱紹良軍事委員軍政庁長、弁公庁主任となった7月馮玉祥閻錫山李宗仁らの軍事力削減狙い国民革命軍軍縮再編を蒋に進言する。蒋はこれを受け入れて第1集団軍整理委員会委員任命し軍縮実践させた。この際自身軍縮影響から第8師師長降格している。 1929年蒋桂戦争勃発すると、朱紹良第2軍軍長昇進安徽から湖北進軍して胡宗鐸ら新広西派系)の軍を撃破した9月中旬張発奎新広西派結んで宜昌で反蒋クーデター起こすと、は討逆軍第6路総指揮昇進し、これを討伐している。1930年民国19年)に中原大戦勃発すると、左翼総指揮起用され隴海線防衛担当した中原大戦終結後1931年民国20年11月中国国民党第4回全国代表大会で朱紹良中央執行委員候補選出された。その後紅軍掃討作戦従事したが、1932年民国21年)の掃討作戦での任務失敗により一時指揮官地位から罷免されている。8月は湘贛辺区剿匪総指揮復帰し10月には右翼総指揮として第4次掃討作戦参戦したが、やはり敗北喫した

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国民革命軍での台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/07/12 18:31 UTC 版)

王東原」の記事における「国民革命軍での台頭」の解説

1917年民国6年)、国立北京高等師範学校入学したが、翌年保定陸軍軍官学校転入し第8期工兵科学んだ1922年民国11年)、卒業し河南省駐屯していた岳維峻率い国民軍第2軍上尉参謀に任ぜられている。翌年夏、王は湖南省移り湘軍湖南軍)第1師独立10上尉教官となったその後順調に昇進し1926年民国15年)夏には湘軍39団団代理として北伐従軍している。 1927年民国16年)、王東原国民革命軍第35軍教導団団長となり、同年5月には中国国民党湖南救党(清党)委員会委員兼任した1928年民国17年)、第35軍教導団教導師拡充され、王が引き続き師長務めた北伐完了後、軍縮に伴い教導師解散され、王は考察団団長として全国各軍状況視察した1929年民国17年4月陸軍新編第7師第3旅旅長に任命され翌年1月には新編第7師が第15師に改組されて王東原率い第3旅も第45となった同年9月、第15師副師長昇進湖南省警備司令兼任したが、まもなく湘南警備司令転じている。1931年民国20年)、陸軍15師長昇進以後中国共産党紅軍包囲掃討作戦参加した1937年民国26年)夏には廬山訓練第一中隊長、大隊長歴任している。

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国民革命軍での台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 19:07 UTC 版)

王耀武」の記事における「国民革命軍での台頭」の解説

若い頃天津タバコ工場工員上海ビスケット販売店店員務めた経験を持つ。1924年民国13年)、黄埔軍官学校第3期入学し翌年第2次東征陳炯明討伐)に従軍した1926年民国15年1月学校卒業して国民革命軍入隊する北伐従軍し軍功により独立32旅第1団団長にまで昇進した1930年民国19年)には中原大戦にも参戦している。 1932年民国21年6月王耀武中国共産党紅軍討伐従事した1933年民国22年9月守備隊補充第1旅旅長に昇進し1934年民国23年11月には、安徽省南部で方志敏率いる紅10軍団・紅7軍団交戦激戦の末に壊滅させている。1936年民国25年6月には王の部隊が第11師に拡充されそのまま王が師長務めた同年8月、同師は第74軍第51師に番号改められ9月、王は陸軍少将の位を授与されている。

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国民革命軍での台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 08:17 UTC 版)

銭大鈞」の記事における「国民革命軍での台頭」の解説

1919年民国8年6月銭大鈞帰国して保定陸軍軍官学校第8期第4隊分隊長任命される翌年10月同校第9期砲兵隊隊長となった1921年民国10年4月孫文が非常大総統就任したのを受け、銭は南下し広東軍(粤軍)第1師学兵営営務官に任ぜられる。以後軍功により着実に昇進し1923年民国12年)、中校参謀となった。まもなく黄埔軍官学校創設準備参加し翌年6月正式に開校すると、中校兵器教官に任ぜられ、さらに上校教官代理昇進している。 1925年民国14年)の第1次東征陳炯明討伐に際して銭大鈞本部少将参謀長任命され蔣介石周恩来補佐したまた、第2教導団団長、第1旅第3団団長などに任ぜられて前線でも指揮をとり、陳配下難敵林虎部隊撃破している。その後も、兵変を起こした劉震寰楊希閔討伐、さらに第2次東征での海豊陸豊(陳の本拠地攻略でも、前線指揮官としてそれらの成功貢献した。これら軍功により、同年12月国民革命軍第1軍第1師少将師長参謀長に、さらに翌1926年民国15年2月には第20中将師長昇進している。 同年7月国民革命軍北伐開始すると、銭大鈞広州警備司令として後方守備担当した1927年民国16年4月12日蔣介石上海クーデター起こすと、銭はこれを支持し広州中国共産党粛清実施している。同年8月南昌起義起きると、銭は葉挺朱徳陳毅らの起義軍攻撃加え苦戦しながらも撃破した9月、第32軍長昇進している。

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