国民革命軍での台頭
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1923年(民国12年)、朱紹良は広州で孫文(孫中山)に合流した。3月、大元帥大本営参謀に任ぜられ、翌年2月、広東省長楊庶堪に省政府顧問として招聘されたが、6月に辞任、上海に去っている。1926年(民国15年)4月、朱は広東に再び赴き、蒋介石と対面して国民革命軍第4軍第10師参謀長に任ぜられた。そのまま北伐に参加し、北京政府軍との戦いで軍功をあげた。 その後北伐軍が武漢を攻略、武漢国民政府が成立したが、蒋介石と汪兆銘(汪精衛)の間で対立が発生すると朱紹良は蒋を支持している。1927年(民国16年)2月に国民革命軍総司令武昌行営参謀長に任ぜられ、翌年、第9軍軍長に任ぜられた。上海クーデター(四・一二政変)の後、国民革命軍総司令部参謀長に昇進したが、8月に蒋が一時的な下野に追い込まれたため、やむなく朱も辞任している。 翌1928年(民国17年)1月の蒋介石復帰に伴い、2月に朱紹良は軍事委員会軍政庁庁長、弁公庁主任となった。7月、馮玉祥・閻錫山・李宗仁らの軍事力削減を狙い、国民革命軍の軍縮・再編を蒋に進言する。蒋はこれを受け入れて朱を第1集団軍整理委員会委員に任命し、軍縮を実践させた。この際に朱自身も軍縮の影響から第8師師長に降格している。 1929年に蒋桂戦争が勃発すると、朱紹良は第2軍軍長に昇進、安徽から湖北へ進軍して胡宗鐸ら新広西派(桂系)の軍を撃破した。9月中旬、張発奎が新広西派と結んで宜昌で反蒋クーデターを起こすと、朱は討逆軍第6路総指揮に昇進し、これを討伐している。1930年(民国19年)に中原大戦が勃発すると、朱は左翼軍総指揮に起用され、隴海線の防衛を担当した。 中原大戦終結後の1931年(民国20年)11月、中国国民党第4回全国代表大会で朱紹良は中央執行委員候補に選出された。その後、朱は紅軍掃討作戦に従事したが、1932年(民国21年)の掃討作戦での任務失敗により一時指揮官の地位から罷免されている。8月、朱は湘贛辺区剿匪総指揮に復帰し、10月には右翼総指揮として第4次掃討作戦に参戦したが、やはり敗北を喫した。
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国民革命軍での台頭
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1917年(民国6年)、国立北京高等師範学校に入学したが、翌年、保定陸軍軍官学校に転入し第8期工兵科で学んだ。1922年(民国11年)、卒業し、河南省に駐屯していた岳維峻率いる国民軍第2軍で上尉参謀に任ぜられている。翌年夏、王は湖南省に移り、湘軍(湖南軍)第1師独立第10団上尉教官となった。その後順調に昇進し、1926年(民国15年)夏には湘軍第39団団長代理として北伐に従軍している。 1927年(民国16年)、王東原は国民革命軍第35軍教導団団長となり、同年5月には中国国民党湖南救党(清党)委員会委員を兼任した。1928年(民国17年)、第35軍教導団は教導師に拡充され、王が引き続き師長を務めた。北伐完了後、軍縮に伴い教導師は解散され、王は考察団団長として全国各軍の状況を視察した。 1929年(民国17年)4月、陸軍新編第7師第3旅旅長に任命され、翌年1月には新編第7師が第15師に改組されて王東原率いる第3旅も第45旅となった。同年9月、第15師副師長に昇進、湖南省会警備司令を兼任したが、まもなく湘南警備司令に転じている。1931年(民国20年)、陸軍第15師師長に昇進、以後、中国共産党(紅軍)包囲掃討作戦に参加した。1937年(民国26年)夏には廬山訓練団第一中隊長、大隊長を歴任している。
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国民革命軍での台頭
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若い頃は天津のタバコ工場工員や上海のビスケット販売店店員を務めた経験を持つ。1924年(民国13年)、黄埔軍官学校第3期で入学し、翌年、第2次東征(陳炯明討伐)に従軍した。1926年(民国15年)1月、学校を卒業して国民革命軍に入隊する。北伐に従軍し、軍功により独立第32旅第1団団長にまで昇進した。1930年(民国19年)には中原大戦にも参戦している。 1932年(民国21年)6月、王耀武は中国共産党(紅軍)討伐に従事した。1933年(民国22年)9月、守備隊補充第1旅旅長に昇進し、1934年(民国23年)11月には、安徽省南部で方志敏率いる紅10軍団・紅7軍団と交戦、激戦の末に壊滅させている。1936年(民国25年)6月には王の部隊が第11師に拡充され、そのまま王が師長を務めた。同年8月、同師は第74軍第51師に番号を改められ、9月、王は陸軍少将の位を授与されている。
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国民革命軍での台頭
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1919年(民国8年)6月、銭大鈞は帰国して保定陸軍軍官学校第8期第4隊分隊長に任命される。翌年10月、同校第9期砲兵隊隊長となった。1921年(民国10年)4月、孫文が非常大総統に就任したのを受け、銭は南下し、広東軍(粤軍)第1師学兵営営務官に任ぜられる。以後、軍功により着実に昇進し、1923年(民国12年)、中校参謀となった。まもなく黄埔軍官学校の創設準備に参加し、翌年6月に正式に開校すると、中校兵器教官に任ぜられ、さらに上校総教官代理に昇進している。 1925年(民国14年)の第1次東征(陳炯明討伐)に際して銭大鈞は本部少将参謀長に任命され、蔣介石・周恩来を補佐した。また、第2教導団団長、第1旅第3団団長などに任ぜられて前線でも指揮をとり、陳配下の難敵・林虎の部隊を撃破している。その後も、兵変を起こした劉震寰・楊希閔の討伐、さらに第2次東征での海豊・陸豊(陳の本拠地)攻略でも、前線指揮官としてそれらの成功に貢献した。これら軍功により、同年12月に国民革命軍第1軍第1師少将副師長兼参謀長に、さらに翌1926年(民国15年)2月には第20師中将師長に昇進している。 同年7月、国民革命軍が北伐を開始すると、銭大鈞は広州警備司令として後方守備を担当した。1927年(民国16年)4月12日、蔣介石が上海クーデターを起こすと、銭はこれを支持し、広州で中国共産党の粛清を実施している。同年8月、南昌起義が起きると、銭は葉挺・朱徳・陳毅らの起義軍に攻撃を加え、苦戦しながらも撃破した。9月、第32軍軍長に昇進している。
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