国民革命軍での活動
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1925年(民国14年)9月、蒋介石により東征軍総部総参議に起用され、前線に復帰する。翌年7月には国民革命軍総司令部総参議に任ぜられ、北伐の指揮に参与する。同年10月、湖北省で湖北政務委員会の設立を担当した。1927年(民国16年)春、国民政府軍事委員会委員となり、翌1928年(民国17年)3月、軍事委員会委員長駐徐州行営主任に任ぜられる。なお同年5月の済南事件に際しては、中国側として交渉当事者の1人となった。10月、国民政府参軍処参軍長となり、北伐終盤には呉鉄城や方本仁と共に国民政府代表として東北に赴き、張学良の易幟を促している。 1929年(民国18年)春、討逆軍第9軍軍長となる。同年3月、中国国民党第3期中央執行委員に当選し(続く第4期から第6期でも中央執行委員に当選)、5月、湖北省政府主席となった。12月、第5路軍総指揮も兼ねている。1932年(民国21年)3月、省政府主席を辞任し、6月、豫鄂皖三省剿匪総司令部左路軍司令官として紅軍討伐に従事した。翌年3月、軍事委員会委員長保定行営主任に転じている。日中戦争(抗日戦争)勃発に伴い、1937年(民国26年)10月に何成濬は湖北省政府主席へ復帰し、戦闘体制の整備に尽力する。翌年6月、省政府主席を離れ、軍事委員会軍法執行総監に転じた。 1946年(民国35年)5月、軍人とては引退して湖北省に戻り、省参議会議長に選出された。1949年(民国38年)、香港に移り、1951年(民国40年)に台湾へ赴いた。以後、総統府国策顧問、総統府資政、国民党中央評議委員、国民党紀律監察委員会委員などを歴任している。1961年(民国50年)5月7日、台北市にて死去。享年80(満78歳)。
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