国民革命軍での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:44 UTC 版)
同年9月17日、馮玉祥が五原誓師を行い、国民軍を国民聯軍に改組し、全軍で中国国民党に加入した。翌月、吉鴻昌は孫良誠に随従して陝西督軍劉鎮華に包囲された友軍(楊虎城らの軍)を救援に向かい、劉率いる鎮嵩軍を撃破した。1927年(民国16年)4月、国民聯軍が国民革命軍第2集団軍に改組されると、吉は第2軍第19師師長に任命され、潼関県を守備している。5月1日、河南省で奉天派の韓麟春・張学良率いる安国軍(中国語版)第3、4方面軍に包囲されていた直隷派・河南保衛軍総司令の靳雲鶚が易幟して救援を求めると、馮玉祥は張発奎率いる第1集団軍第4方面軍第1縦隊とともに河南省への北伐を決行する。5月6日、吉も潼関を出撃、西端の閿郷県から入省すると26日に洛陽、続いて鞏県を次々と攻略する。7月には、黄河渡河作戦を決行し、北部新郷の奪取に成功し、安国軍を駆逐した。この軍功により、第19師は馮から「鉄軍」の称号を授かっている。その後も、靳雲鶚に攻撃を加え、北伐軍の後顧の憂いを断っている。 しかし1928年(民国17年)、済南事件で蔣介石が日本軍に強い態度をとらなかったことに吉鴻昌は悲憤慷慨し、一時帰郷して暫時休養している。まもなく隊に戻ったが、第2集団軍の軍縮・再編に際して吉は上司の孫良誠と対立し、それが原因で第19師は解散されてしまい、吉自身は陸軍大学特訓班へ送られてしまった。同年冬、吉は改めて国民革命軍第30師師長に任ぜられた。1929年(民国18年)春、寧夏省に駐留し、進攻してきた馬家軍を撃退している。5月、第10軍軍長に昇進し、7月には第7軍軍長門致中の後任として寧夏省政府主席となった。この頃の吉は蔣に反感を覚えながらも、内政改革推進の立場から、馮が進める反蔣内戦にも反対していた。そのため国民軍の旧幹部からは誤解や忌避を受けていたとされる。
※この「国民革命軍での活躍」の解説は、「吉鴻昌」の解説の一部です。
「国民革命軍での活躍」を含む「吉鴻昌」の記事については、「吉鴻昌」の概要を参照ください。
- 国民革命軍での活躍のページへのリンク