国民革命軍の重鎮として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 03:21 UTC 版)
北伐終了後は、軍縮のために、顧祝同はいったん第1軍第2師師長となる。しかし、反蒋介石派との内戦で功績をあげ、1929年(民国18年)10月には第1軍軍長となった。その翌年10月には、8個師を率いる第16路軍総指揮となった。さらに、陸海空軍総司令部洛陽行営主任に異動している。 1931年(民国20年)5月には、南京警衛軍軍長兼第1師師長に任命された。このときに顧祝同は、ドイツ人顧問を招聘したり、ドイツの兵器を導入したりして、国民革命軍の強化に努めた。同年11月、中国国民党第4回全国代表大会で中央執行委員に選出される。また、江蘇省政府主席にも任じられた。 1933年(民国22年)の第5次中国共産党討伐(「囲剿」)では、北路軍総司令に任命され、その成功に貢献した。長征に向かった紅軍への追撃も行い、1934年(民国23年)11月、軍事委員会委員長四川行営主任に任命される。1936年(民国25年)6月には、貴州省政府主席兼全省保安司令となった。 西安事変後は、顧祝同は軍事委員会委員長西安行営主任に任命される。このとき、張学良の東北軍、楊虎城の第17路軍に対する再編を行った。また、国民政府の代表として、共産党代表の周恩来と数か月にわたり交渉を担当している。 日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、顧祝同は第9集団軍総司令に任命された。1937年(民国26年)8月の第2次上海事変(「八・一三」淞滬抗戦)の際には、第3戦区副司令長官に任命され、司令長官馮玉祥を補佐した。翌年1月に顧祝同は第3戦区司令長官に昇進し(前年11月には江蘇省政府主席に再任)、汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府への対応を担当した。 基本的に顧は、持久戦術をとり、南京国民政府との戦闘はできるだけ回避した。その一方で、1941年(民国30年)1月の皖南事変ではこれを主導して新四軍を殲滅し、同軍軍長葉挺を捕虜として重慶に護送した。1945年(民国34年)1月、軍事委員会委員長贛州行轅主任を兼任し、第7戦区と第9戦区も統制した。
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