国民革命軍への易幟、反蔣戦争での敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:35 UTC 版)
「閻錫山」の記事における「国民革命軍への易幟、反蔣戦争での敗北」の解説
1924年(民国13年)、馮玉祥が北京政変(首都革命)を発動した際には、当初中立の姿勢をとったが、最終的に馮玉祥を支持した。しかし、1925年(民国15年)末頃に張作霖・呉佩孚が「討赤」を唱えて対馮玉祥包囲網を形成すると、閻錫山は馮玉祥を見限って討伐する側に転じている。馮玉祥の国民軍が西北へ退却すると、閻錫山は綏遠省も掌握し、自軍を「晋綏軍」と称した。その一方で部下の趙丕廉を武漢に派遣し、密かに国民政府との連携も確立させ始めている。 1927年(民国16年)4月、閻錫山は国民政府から国民革命軍第3集団軍総司令に任命され、6月に易幟を公式に宣言した。また、中国国民党第3期中央執行委員にも選出された。1928年(民国17年)2月からは北京・天津方面へ出兵して奉天派の軍を駆逐し、平津衛戍総司令に任命された。同年10月には国民政府内政部長に任じられている。これにより閻錫山は、従来の根拠地山西省だけでなく、綏遠・察哈爾・河北・北平・天津へと勢力圏を広げたのである。 国民政府の北伐完成後から間もなく、反蔣介石派の軍閥らが次々と挙兵し、各地で戦争が頻発した。閻錫山は初め親蔣介石の姿勢を保っていた。しかし、1930年4月、ついに他の反蔣介石派と連合して4月に陸海空軍総司令を自称し、中原大戦を発動した。ところが、張学良が蔣介石を支持して関内に進軍したため、反蔣介石連合軍は瓦解、閻錫山は大連に逃れ、日本の庇護を受けた。
※この「国民革命軍への易幟、反蔣戦争での敗北」の解説は、「閻錫山」の解説の一部です。
「国民革命軍への易幟、反蔣戦争での敗北」を含む「閻錫山」の記事については、「閻錫山」の概要を参照ください。
- 国民革命軍への易幟、反蔣戦争での敗北のページへのリンク