国民革命軍創設期の活動
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1924年(民国13年)、何応欽は蔣介石の推薦を受けて孫文の下で大本営軍事参議に任命され、さらに廖仲愷を補佐して黄埔軍官学校の創設に従事した。同学校が開校すると、軍校少将総教官に任命され、軍事教学・訓練の責任者を務める。まもなく何応欽は同学校教導第1団団長に昇進し、1925年(民国14年)1月より陳炯明討伐の第1次東征に従事、陳炯明配下の難敵の林虎を激戦の末に破った。同年3月、第1旅旅長に昇進し、さらに楊希閔・劉震寰の反乱を鎮圧している。7月、国民革命軍の正式な成立と共に、何応欽は第1軍第1師師長に就任した(軍長:蔣介石)。10月より第2次東征に第1縦隊隊長として参戦し、11月に陳炯明の軍を殲滅、勝利を収めている。この間の活躍により、何応欽は「蔣介石の片腕」と評される存在にまでなった。 1926年(民国15年)1月、何応欽は蔣介石の後任として第1軍軍長に任命された。同年3月の中山艦事件でも、蔣介石の指示に従い軍内の中国共産党員をことごとく罷免し、さらに黄埔軍官学校教育長に就任している。同年7月からの北伐では、何応欽は東路軍総指揮として福建攻略を担当、北京政府側の福建督弁の周蔭人を撃破、12月には福州を占拠した。1927年(民国16年)1月には、浙江で孫伝芳の北京政府軍を撃破、2月に杭州を占拠している。 同年4月の上海クーデター(四・一二政変)でも、何応欽は蔣介石を支持した。これにより蔣介石が南京に国民政府を樹立すると、何応欽は国民政府委員に任命され、さらに5月には第1路軍総指揮となった。何応欽は北伐を続行し、長江を渡り北進したが、徐州で北京政府側の反撃に遭い、敗北を喫する。このとき、蔣介石は自ら前線で督戦したにもかかわらず敗北したことに怒り、前敵総司令を務めた第10軍軍長王天培に「敵前逃亡」の罪を被せて処刑し、さらに何応欽に対しても非難を浴びせるほどであった。何応欽はこれに怒り、新広西派(新桂系)や武漢国民政府側が蔣介石の責任を問う動きを見せてもこれを放置、孤立した蔣介石は8月13日に一時下野に追い込まれている。その後、何応欽は新桂系の李宗仁や白崇禧と協力して、孫伝芳軍を竜潭で殲滅、北伐の趨勢を決定付ける勝利を得た。
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