国民革命軍への易幟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 14:10 UTC 版)
1922年(民国11年)8月、楊樹荘は福建省に向かう。このころ、福建都督李厚基の支配が動揺し、崩壊に向かっており、楊はこの隙をついて大量の軍需物資を奪取した。1923年(民国12年)5月、楊は署理海軍練習艦隊司令に任ぜられ、さらに福建省で自らの勢力を拡大させている。翌年、北京政府から摂閩廈警備司令に任ぜられると、廈門を中心に根拠地の確立を進めた。 北京政府では、楊樹荘は海軍総司令杜錫珪を支持し、直隷派に属している。しかし、1924年の第2次奉直戦争では、楊は目立った行動をしなかった。そのため、段祺瑞の臨時執政政権では杜が罷免されたものの、楊は逆に海軍総司令に昇進している。翌年、杜が復権して海軍総長に任命されたが、楊はそのまま総司令に留任した。 1926年(民国15年)7月、国民革命軍が北伐を開始すると、杜錫珪と楊樹荘はこれに味方することを考えるようになる。そして、一部の艦隊を少しずつ国民革命軍に呼応させるようにした。そして翌1927年(民国16年)3月、ついに楊は独立宣言を発し、国民革命軍へ起義を宣言する。そして呉淞口で国民革命軍海軍総司令部を設立し、楊が海軍総司令にそのまま任じられた。北伐においては、北京政府側の東北海防艦隊を相手に戦い、上海クーデター(四・一二事変)でも楊は蒋介石を支持している。
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