明との攻防
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1636年5月30日、清軍は明に再び攻め入る。アジゲ、アバタイに命じて関内に攻め入らせた。同年8月12日、ドド、ドルゴンに山海関方面を攻撃するように見せかけて明を引き付け、アジゲ、アバタイは独石口から関内に延慶、居庸関、昌平を襲撃した。しかし北京攻略の意図はなく、8月末に帰還した。明の兵部尚書張鳳翼と宣大総督梁延棟は、この戦いの責任を取り自決した。 1638年8月から翌年3月まで7か月間、ドルゴン、ホーゲ、アバタイの左翼軍とヨト、トドの右翼軍が関内に襲撃した。この時、密雲総督呉阿衡が追撃して、逆に戦死した。明はこれに慌てたが、主戦派と和平派で真っ二つに分かれ、効果的な対応を決められないまま戦局を悪化させた。11月、高陽城の戦いで孫承宗が戦死した。12月に太監高起潜も監軍として出撃したが、なすところなく逃走した。主戦派リーダーの盧象昇5千は巨鹿で孤軍奮闘したが、殲滅された。巨鹿は北京南方にあり、清軍はここまで奥深く攻めた。1月、山東省の臨清、済南を攻撃した。済南では徳王朱由枢を捕らえる。この戦いで20万人以上の捕虜を得た。 1641年、清軍は錦州城を再び攻める。この戦いは補給線を保つために遼西を一掃しようとする本格的な明征伐だった。錦州城の制海権は明にあり、まだ余裕があったので、大凌河城と同じように包囲戦を敷いた。この戦いは孔有徳、耿仲明の「漢三王」の部隊もいた。また、清を欺いた祖大寿が守将であり、ホンタイジと因縁があった。錦州危うし、と崇禎帝は李自成と争っていた洪承畴を呼び出し、清軍を撃破するように大命を下した。洪承畴は8人の総兵と13万の軍勢を率いて錦州城に向かった。洪承畴は持久戦を提案して自分勝手な部下たちを説得した。しかし朝廷は長期間賄える食料がないことから短期決戦を要求する。洪承畴は憤慨したが、皇帝の命令なのでしぶしぶ従った。くしくもサルフの戦いのと同じ失敗をしてしまう。短期決戦を選んだ洪承畴は筆架山島に食料を置いて、兵には軽装させた。これを察したホンタイジは、ホーゲとアジゲに5千の兵を率いさせ食料を焼いた。清はこの大軍に錦州松山、杏山、などをすっかり包囲した。 この頃からホンタイジの体調が悪くなっていった。 洪承畴は決戦を主張したが、部下は包囲を突破して再び立て直すべきと主張し、実行した。しかし包囲は固く失敗する。その後将軍たちは逃げ出し、5万人以上の死傷者を出した。呉三桂は寧遠に戻り、洪承畴はなんとか松山城に帰還したが、兵は1万足らずだった。 ホンタイジはこのチャンスを逃さず松山城を攻めたので、洪承畴はいよいよ追い込まれる。清には祖大寿の息子祖可法が旧知の仲である夏承徳に袁崇煥の例を出して説得した。夏承徳は1642年2月、自分の息子をホンタイジに預けて投降する。2月21日、清の攻撃に夏承徳が呼応したこともあり、松山城は落城して洪承畴が捕らえられた。囚われた洪承畴は清に反抗したが、ホンタイジの寛大な態度に心動かされ、彼に忠誠を誓った。ホンタイジはこれに喜び洪承畴を厚遇した。洪承畴もこれに応えて清の入関に貢献し、靖南王に封じられている。松山城が落城したことで完全に孤立した錦州城の祖大寿は、息子の説得もあり投降した。ホンタイジは一度裏切った彼を許し、生計が立つようにした。洪承畴や祖大寿を重用したことは、明への政治的影響力が強く、その後は明の高官が帰順することが増えて、反清感情も和らいだ。 清軍内部では一気に寧遠城を攻めようとする意見が多くなるが、ホンタイジは兵を休めつつ朝廷に揺さぶりをかける方が良いと考えた。
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