明との攻防とは? わかりやすく解説

明との攻防

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 06:16 UTC 版)

ホンタイジ」の記事における「明との攻防」の解説

1636年5月30日、清軍は明に再び攻め入る。アジゲ、アバタイ命じて関内攻め入らせた。同年8月12日ドドドルゴン山海関方面攻撃するように見せかけて明を引き付け、アジゲ、アバタイは独石口から関内延慶居庸関昌平襲撃した。しかし北京攻略意図はなく、8月末に帰還した。明の兵部尚書張鳳翼と宣大総督延棟は、この戦い責任取り自決した1638年8月から翌年3月まで7か月間、ドルゴンホーゲアバタイ左翼軍とヨト、トド右翼軍が関内襲撃した。この時、密雲総督阿衡追撃して逆に戦死した。明はこれに慌てたが、主戦派と和平派真っ二つ分かれ効果的な対応を決められないまま戦局悪化させた。11月高陽城の戦いで孫承宗戦死した12月太監高起潜も監軍として出撃したが、なすところなく逃走した主戦リーダー盧象昇5千は巨鹿孤軍奮闘したが、殲滅された。巨鹿北京南方にあり、清軍はここまで奥深く攻めた1月山東省臨清済南攻撃した済南では徳王捕らえる。この戦いで20万人上の捕虜得た1641年、清軍は錦州城を再び攻める。この戦い補給線を保つために遼西一掃しようとする本格的な征伐だった。錦州城の制海権明にあり、まだ余裕があったので、大凌河城と同じよう包囲戦敷いた。この戦い孔有徳耿仲明の「漢三王」の部隊もいた。また、清を欺いた祖大寿が守将であり、ホンタイジ因縁があった。錦州危うし、と崇禎帝李自成争っていた洪承畴呼び出し、清軍を撃破するように大命下した洪承畴は8人の総兵と13軍勢率いて錦州城に向かった洪承畴持久戦提案して自分勝手な部下たちを説得した。しかし朝廷長期間賄える食料がないことから短期決戦要求する洪承畴憤慨したが、皇帝命令なのでしぶしぶ従ったくしくもサルフの戦いのと同じ失敗をしてしまう。短期決戦選んだ洪承畴筆架山島食料置いて、兵には軽装させた。これを察したホンタイジは、ホーゲとアジゲに5千の兵を率いさせ食料焼いた。清はこの大軍錦州松山山、などをすっかり包囲したこの頃からホンタイジ体調悪くなっていった洪承畴決戦主張したが、部下包囲突破して再び立て直すべきと主張し実行した。しかし包囲固く失敗するその後将軍たちは逃げ出し5万人以上の死傷者出した呉三桂は寧遠に戻り洪承畴はなんとか松山城帰還したが、兵は1万足らずだった。 ホンタイジはこのチャンス逃さず松山城攻めたので、洪承畴はいよいよ追い込まれる清に祖大寿息子祖可法が旧知の仲である夏承徳袁崇煥の例を出して説得した。夏承徳1642年2月自分息子ホンタイジ預けて投降する。2月21日、清の攻撃に夏承徳呼応したこともあり、松山城落城して洪承畴捕らえられた。囚われ洪承畴清に反抗したが、ホンタイジ寛大な態度に心動かされ彼に忠誠誓ったホンタイジはこれに喜び洪承畴厚遇した洪承畴もこれに応えて清の入関貢献し、靖南王封じられている。松山城落城したことで完全に孤立した錦州城の祖大寿は、息子説得もあり投降したホンタイジ一度裏切った彼を許し生計が立つようにした。洪承畴祖大寿重用したことは、明への政治的影響力強くその後は明の高官帰順することが増えて、反清感情和らいだ。 清軍内部では一気に寧遠城を攻めようとする意見多くなるが、ホンタイジは兵を休めつつ朝廷揺さぶりをかける方が良い考えた

※この「明との攻防」の解説は、「ホンタイジ」の解説の一部です。
「明との攻防」を含む「ホンタイジ」の記事については、「ホンタイジ」の概要を参照ください。

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