清朝の戦後処理とロシアとの交渉とは? わかりやすく解説

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清朝の戦後処理とロシアとの交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 19:33 UTC 版)

新疆の歴史」の記事における「清朝の戦後処理とロシアとの交渉」の解説

イリ地方は、1871年以来ロシアの支配にあったが、ロシアクリミア戦争のため、清の進出対抗できなかった。 1879年、清は9カ月にわたるロシアとの交渉の末、10月2日黒海沿岸リヴァディアにあるリヴァディア宮殿十八条条約(リヴァディア条約)に調印した。しかしこの条約ロシア側の意向沿ったもので、イリ西部イリ南部ロシア割譲しハミトルファンウルムチなど7カ所にロシア領事館設置し、さらにロシアとの免税貿易許可するという内容だった。清側では朝野議論沸騰し左宗棠ロシアとの開戦主張した結局外交担当した崇厚西太后によって死刑宣告されるが、イギリスが清側にロシア怒らせないようと崇厚死刑恩赦進言、清は恩赦するにいたる。 ロシア側は清との戦争準備し軍艦黄海派遣し他方左宗棠イリ攻撃作戦練ったうえで1880年4月粛州出発ハミにいたり、ロシアと清の関係は緊張する。しかし、左宗棠召還されロシアとの和平交渉開始される1881年2月イリ条約締結され清朝ザイサン湖周辺地方すなわちホルゴス以西イリ西部ロシア割譲しイリ東側清に返還されること、また賠償金減額されロシア側へ900ルーブル支払うこと、粛州トルファンロシア領事館設置することで合意された。この条約不平等条約ではあったが、中央アジア地域国境画定され、この時の国境線は現在に至る。

※この「清朝の戦後処理とロシアとの交渉」の解説は、「新疆の歴史」の解説の一部です。
「清朝の戦後処理とロシアとの交渉」を含む「新疆の歴史」の記事については、「新疆の歴史」の概要を参照ください。

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