清朝の新疆支配
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「中国におけるイスラームの歴史」の記事における「清朝の新疆支配」の解説
清朝は乾隆帝の時代にジュンガル王国を滅ぼし、中国が初めてムスリムが主流を占める地域を支配することとなった。清朝は新疆を支配するにあたって辮髪を禁じたり、中国本土からの漢人の移民を制限した。ただし、流罪となって新疆に来ることになった漢語ムスリムがおり、現在の新疆に住む回族の源流となっている。新疆に住んでいたテュルク系ムスリムはこうした漢語ムスリムを、「ムスリム」である自分たちと区別して「トゥンガン」や「トゥンガーニー」と呼ぶ傾向があった。 新疆では1760年ごろでは「回法」や「回例」と呼ばれたイスラーム法が適用されていたが、18世紀末には軽微な犯罪は従来通りイスラーム法で裁かれたものの重罪は「大清律令」で裁かれることとなった。 清朝支配下の新疆は安定した状況を保ち、農地は拡大し人口も増加し、清朝の皇帝に信頼を寄せて忠誠をもって恩義に報いるべきだとする者がいた。しかしその一方で異教徒の支配からの脱却を目指す者もおり、シャリーアに基づくジハードを行い異教徒の支配を打倒。「イスラームの家」を実現させようとする運動が起こった。この運動の中核がかつて東トルキスタンを支配していたカシュガル・ホージャ家の子孫であり、1820年代以降、子孫たちは故郷奪還を目指して新疆に侵入した。また、これらのジハードはコーカンド・ハン国など東方貿易の利権拡大を狙った中央アジアのイスラーム諸国も関与しており、清朝はしだいに新疆の政治的・社会的な混乱を収拾できなくなった。 1860年代に起こった新疆での反乱以降、清朝は新疆への漢人の植民やテュルク系ムスリムへの漢語教育を実施し、新疆の中国化を進めた。 その後、中華民国期となった1933年には新疆の最西部で東トルキスタン共和国が成立したが、国民政府軍の攻撃を受け6ヶ月で崩壊した。1945年には新疆の北部でソ連の支援の下、再び東トルキスタン共和国が成立したが、ソ連が支援をやめたため1年後には崩壊し、共産党に服属した。
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