清朝の反応と革命政府との講和
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「辛亥革命」の記事における「清朝の反応と革命政府との講和」の解説
武昌蜂起の後、中国に権益を有す列強諸国は静観の立場を採り、清朝政府または革命政府の中での自己の権益に有利な政権を観察していた。 1911年10月14日、清は彰徳で病気療養中であった袁世凱を湖広総督としたが、袁世凱が病を理由に就任を固辞した。10月22日の湖南独立、10月23日の江西独立を受け、10月27日に袁世凱を欽差大臣に任命し北洋軍を率いて武漢進攻に着手した。10月29日に山西独立、同日に新軍第二十鎮による灤州兵諫の発生を受け、11月1日に清朝は袁世凱を内閣総理大臣に任命した。しかし11月2日に漢口攻撃した後は清軍の軍事行動を停止し、水面下で革命政府との講和協議が行われ、11月3日には清朝により『憲法重大信条十九条』が発表された。 11月13日、袁世凱が北京に到着して内閣総理大臣に就任、16日には責任内閣を組閣し、清朝の行政権が移譲されるとともに、各国の政府承認を受けている。 11月26日、袁世凱はイギリス駐漢口総領事ハーバード・ゴッフ(Herbert Goffe)を通して、民国軍政府及び各省代表に停戦、宣統帝の退位、袁世凱の総統就任の講和三条件を提示した。12月1日に双方は『武漢地区停戦協定』を締結、武漢地区は12月3日午前8時から12月6日午前8時までの3日間の停戦が実現し、停戦後は休戦交渉が行われた。 12月8日、袁世凱は唐紹儀を内閣総理大臣の全権代表として派遣、12月9日には唐紹儀は武漢に赴き黎元洪やその代表との会談を行い、同日各省代表は伍廷芳を停戦交渉の全権代表に選出した。 列強諸国の介入もあり、清朝政府代表の唐紹儀と各省代表の伍廷芳は上海イギリス租界で交渉を開始、その結果、袁世凱は宣統帝の退位を支持することを条件に、各省代表は袁世凱の中華民国大総統への就任を支持した。成立したばかりの共和国から内戦や外国軍隊の介入を未然に防止する観点からも、孫文もまた中国の統一と袁世凱を首班とする共和政府の樹立に同意している。 1912年1月1日、中華民国臨時政府が正式に成立、孫文が臨時大総統に就任した。1月2日、孫文の大総統就任を知ると、袁世凱は唐紹儀の交渉代表資格を停止している。 1月16日、袁世凱は朝廷からの帰路、東華門丁字街で同盟会京津分会組織の爆弾による暗殺計画に遭遇している。この暗殺は失敗したが、17日に袁世凱は革命勢力に対し暗殺活動の停止を要求している。 1月20日、民国臨時政府は袁世凱に対し、皇帝の退位と優待条件を提示、1月22日に孫文は袁世凱が宣統帝の退位に賛成するのであれば自らは大総統職を辞任し、袁世凱の就任を要請する声明を発表した。地位が保証された袁世凱は清朝に対する圧力を強め、慶親王奕劻と那桐への政治工作、隆裕太后の寵愛を受けた太監である張蘭徳に賄賂工作を行い、「時局の大勢は既に決し、もし革命軍が北京に到達すれば皇帝の生命の確保もおぼつかないが、退位することで優待条件を受けることができる」と退位を勧めた。 1月29日、清朝は朝議により宣統帝の退位を決定、2月3日には隆裕太后は袁世凱に全権を委任し、民国臨時政府との皇帝退位条件の交渉に当らせた。 2月6日、臨時参議院は皇帝退位のための『優待条例』と張謇が起草した『退位詔書』を承認した。承認された優待条件は下記の通りである。 大清皇帝尊号は今後も使用可能であり、民国政府により外国君主と同等の待遇を受ける。 民国政府は毎年400万元を皇帝に支出する。 皇帝は暫時紫禁城に居住し、後に頤和園に移る。 清室の宗廟は民国政府により保護を受ける。 光緒帝王の崇陵建設費用は民国政府が支出する。 宮廷内の雇人は継続して雇用される。 皇室の私有財産は民国国軍により保護される。 禁軍は民国陸軍に編入する。 皇帝退位に伴う優待条件以外に清皇室及び満蒙回蔵各王族の待遇条件7条も同時に定められた。 日本の西園寺内閣は清と革命軍の妥協政策をイギリスに提案したが、イギリスは袁世凱と提携し、共和制中華民国を成立させた。日本陸軍は辛亥革命を進出の機会ととらえ、1912年1月、居留民保護のため漢口に日本陸軍中清派遣隊 (後に中支那派遣隊)を漢口に派遣し、1922年7月まで駐屯させた。歩兵四個中隊、7000人規模で北京天津の支那駐屯軍よりも大きいものであった。この時ロシア、イギリスも派兵した。 1912年2月には第一次満蒙独立運動(中国語版)を開始するが、イギリスに主導権をとられたことで失敗に終わった。日本陸軍は日英同盟への不信をつのらせ、他方、外務省と日本海軍は日英同盟を重視し、対立した。
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