清朝のチベット支配の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 10:16 UTC 版)
「チベットの歴史」の記事における「清朝のチベット支配の終焉」の解説
19世紀に入ると清朝は1840年の清・シク戦争(ドーグラー戦争、1841年 - 1842年)、1855年-1856年のネパール・チベット戦争などにおける無策により、チベット人の信頼を失なっていった。 1903年12月から1904年9月にかけて、ヤングハズバンド率いる英印軍のチベット侵攻と虐殺事件(英語版)が起こった。1905年-1910年の趙爾豊による四川軍のチベット侵攻(1905 Tibetan Rebellion)にあたり、清朝の朝廷は、趙爾豊の側に立ってチベットの抗議を否定し、インドに脱出したダライラマ13世に対し、「廃位」や「別の転生者の捜索」を命じたため、清朝の権威は完全に地におちた。 1911年には辛亥革命が展開し、1912年2月に宣統帝が退位し、孫文との交渉で袁世凱が中華民国の第2代臨時大総統に就任した。これにより、清朝は崩壊、チベットにおける満州人の支配も崩壊した(後述)。
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