清朝によるモンゴル民族の支配体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:13 UTC 版)
「モンゴル民族」の記事における「清朝によるモンゴル民族の支配体制」の解説
清朝に服属したモンゴル民族の多くは、外藩蒙古、内属蒙古、蒙古八旗のいずれかに区分された。外藩蒙古はチンギス・ハンの子孫たち、またはチンギス裔ではない「王公」(=貴族)を領主としてモンゴル草原に遊牧する諸部の総称。地理的には現モンゴル国、中国の内蒙古自治区・青海省・新疆ウイグル自治区などに分布する諸集団の大部分を包括した。内属蒙古は、かつてハーン家(チンギス裔の宗家)やアルタン・ハーン家に属し、後に清朝により両家が取りつぶされ、清朝皇帝の直轄とされたチャハル部・帰化城トメト部の2部を指す。蒙古八旗は、1616年から1636年にかけて清朝に個別に服属し、清朝の支配層の最上位に位置する「八旗」の一員として再編されたモンゴル人集団をいう。 チベット高原の中央部に居住し、「七十九族」と呼ばれた遊牧民の集団には、元朝文宗の末裔を称するホル族など、モンゴル系の集団が含まれている。彼らは1723年-24年に清朝の支配下に入り、1732年に「青海」所属の「四十族」と「西藏」所属の「三十九族」に分割され(→詳細は雍正のチベット分割)、四十族は「土司制」、「三十九族」はチベットガンデンポタンのポラネー父子の政権をへて、「駐藏大臣」の属下にうつされた。
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