清朝「三世の春」
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「近世から近代にかけての世界の一体化」の記事における「清朝「三世の春」」の解説
詳細は「清#経済」および「乾隆帝」を参照 「雍正のチベット分割」も参照 康熙帝、雍正帝、乾隆帝の3人の皇帝の時代を三世の春と呼ぶ。この3人の時代に、皇帝はモンゴル、チベット、ウイグル等の民族にハーンとして君臨し、理藩院による間接統治をおこなう形態を採用する一方、李氏朝鮮やヴェトナム、ビルマ、タイなどの東南アジアの諸国には中国の伝統的な外交方針である冊封体制のもと、周辺諸国とのあいだで朝貢貿易がおこなわれ、緩やかに周辺を支配する形態を採用する形式が完全に確立した時代だった。そのため、ヨーロッパ諸国も中国の伝統的秩序のなかで貿易を行わざるを得なかった。上述のように茶、陶磁器などの物品はヨーロッパで人気のある商品だったため、ヨーロッパの商人は代価として銀を支払うという片貿易の状態が続いた。これは、対日貿易も同じで、明朝の時代よりアメリカ大陸や日本からの銀の輸入が続いたことにより、康熙帝は1711年、地丁銀制を採用した。 対内的に見ると、この時代は戦乱も落ち着いたことから人口が急激に増加した時代だった。康熙帝の頃の17世紀末の人口は約1億5000万人と推定されていたが、約100年後の18世紀後半には3億人を越えたと推定される。地丁銀制により人頭税(丁銀)が固定化したことも人口増加の一因として挙げられるが、この100年間の人口急増を支えたのが、新大陸よりもたらされたトウモロコシやサツマイモ、トウガラシといった農産物だった。農業の発展と貨幣経済の進展により商工業も発達し、新安商人、山西商人といった商業ネットワークも形成されていき、主要都市には、同郷者や同業者の集まる会館・公所がさかんに設立された。 1722年に即位した雍正帝は、朝4時から夜12時まで政務から離れず、便箋もホゴ紙を用い、食事も茶碗についた一粒の米を惜しんだほどの倹約家で、1732年に設置した政治の最高機関軍機処の建物もみすぼらしいバラックのような建物だったという。厳正な政治を心がけた彼は、1724年にはキリスト教の布教を禁止し、イエズス会宣教師をマカオに追放した。1727年には、ロシアとの間にキャフタ条約を結び、モンゴルとシベリアのあいだの国境を画定した。 1735年に即位した乾隆帝の治世は60年の長きにわたった。乾隆帝の業績としてまず挙げられるのが「十全武功」である。ジュンガル、金川、グルカには2度の、回部、台湾、ビルマ、安南には1度の外征を行い、合わせて「十全武功」として自らを「十全老人」と呼んだ。これにより清の版図は最大規模に広がった。また、乾隆30年代にビルマに内乱が起こり、乾隆帝はこれに介入して乾隆34年(1769年)にビルマを朝貢国とした。乾隆53年(1788年)ヴェトナムが王朝交替で乱れると、これに介入して朝貢国とした。ほかに、ラオス、タイを服属させた。 康煕・雍正時代の経済的繁栄や宮廷の倹約もあって国庫は充実し、乾隆帝はたびたび減税を行った。10回の外征も、こうした豊かさを前提としていたが、彼自身は豪奢な南方巡幸を行ったり、ジュゼッペ・カスティリオーネに円明園を造らせるなど派手好みな傾向があった。外国貿易に関しては、1757年に貿易制限令を発して、外国貿易を広州1港に限定した(公行制)。なお、乾隆晩年の1793年にはイギリス使節ジョージ・マカートニーが渡来して通商を要求したが、それに対して乾隆帝は、「わが国は地大物博(地ひろく物産がゆたか)で貴国から買うものはない」といって、その要求をしりぞけた。これは、中国皇帝の傲慢さを示すことばだとして伝えられたが、当時としては事実でもあった。 ただし、18世紀代の約100年で人口が倍増したことは、民衆にとっては、新たな農地開墾に限界を生じさせることともなっていた。そのため、漢民族は移民が禁止されていた満州やモンゴル、ウイグルや台湾、雲南省、貴州省といった地域にも進出する一方、福建省や広東省の沿岸の住民は、東南アジアの諸地域に移住していった(華僑のはしり)。
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