清朝の保甲制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 05:39 UTC 版)
清朝は、明朝の里甲を参考に、保甲の制度を基層組織として創設した。明朝の里甲は専ら地方の賦税の徴収を管理したが、保甲は人民の思想行動を監視し、反抗の防止と鎮圧の責任を負った。清朝の統治者は、再三再四「盗ヲ弥(とど)ムル良法ハ、保甲ニ如クハナ無シ」と言明し、特に康熙帝は、聖諭十六条(中国語版)において、「保甲ヲ聯ネ以ッテ盗寇ヲ弥ム」を施政方針の一つとした。康熙47年には、各戸に「印信紙牌一張ヲ給シ、姓名丁男ノ口数ヲ書写シ、出ヅレバ即チ往ク所ヲ注明シ、入レバ即チ其ノ来タリシ所ヲ稽(かんが)ヘ、面生ノ疑フベキ人ハ、盤詰ノ的確ナルニ非ザレバ容留ヲ許サズ・・月底(月末)ニハ保長ヲシテ無事キヲ具セル甘結(官庁に出す保証書・誓約書)ヲ出シ、官ニ報ジテ査ニ備ヘ令ム」と定めた。雍正4年、さらに「十戸に一牌頭を立て、十牌に一甲長を立て、十甲に一保正を立つ」と規定した。少数民族居住地、山間地帯から人口密集地の隅々に至るまで保甲制は敷かれた。保甲の長にはすべて「識字及び家柄を有する人」をあて、いわゆる「士大夫を以って其の郷を治む」ものであった。
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