清朝の官僚への登用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:34 UTC 版)
光緒13年(1886年)に徐世昌は科挙に及第し、エリートコースとされる翰林院に配属されたが、途中母の喪に服するなどしてその出世は遅々としたものであった。徐世昌が頭角を現したのは光緒22年(1895年)、袁世凱により編成された新建陸軍の参謀に就任してからである。徐世昌は文官であったため軍事知識に乏しく参謀の任には不適任といえた。しかし袁世凱にとっては正学を治め科挙に及第し(袁世凱は科挙は合格していない)、伝統的な教養もあり、かつ古くから親交を有する徐世昌が身近に助言する立場とすることは、袁世凱自身が清廷で政治的立場を強化するに大きな意義を有した。その後、袁世凱の昇進にともない徐世昌も東三省総督、郵伝部尚書など要職を歴任した。 宣統元年(1909年)、袁世凱は摂政王となった宣統帝の父醇親王との対立から失脚した。袁世凱による北洋軍を解体する意見も出され、徐世昌もまたその弾劾の対象となった。しかし当時清朝で唯一の有効な軍事力となっていた北洋軍を解体することはできず、その北洋軍の諸将と友好的な関係を有す唯一の高級官僚である徐世昌を下野させることもできず、徐世昌は中央政界にとどまり、河南省で隠棲する袁世凱との連絡を取り続けた。 宣統3年(1911年)5月には内閣協理大臣(副首相)に任命され、さらに10月には軍諮大臣となり、太保の称を賜った。
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