清朝の新疆討伐とは? わかりやすく解説

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清朝の新疆討伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 19:33 UTC 版)

新疆の歴史」の記事における「清朝の新疆討伐」の解説

1872年同治11年7月清朝側は主戦派である左宗棠が兵を率いて蘭州進駐し、新疆討伐への準備開始した海防・塞防論争 しかし、1874年日本による台湾出兵受けて沿海各省は「台湾急なを以て西征を停解せん」と提議し1875年同治13年光緒元年)、新疆出兵について朝廷内で争議海防・塞防論争)が発生した李鴻章海防派新疆放棄し資金海防に回すことを主張し国庫を空にして西征を行うよりもイギリス人条件をのみ、ヤクブ・ベク独立認め朝貢させればよいと主張した。塞防派である左宗棠は、新疆失えばかの地必然的にイギリスロシア影響下に入り西北部防御の要を失いかえってもっと多く兵力西北防御費やすことになり、また新疆失えば国威衰え民心失い諸外国つけあがるゆえかえって海防支障をきたすことになるだろうと主張した満州人軍機大臣文祥(ウェンシャン)は左宗棠建議奏上朝廷摂政西太后左宗棠の塞防提案裁可し、同1875年左宗棠新疆討伐総司令欽差大臣任命され金順副将に、新疆討伐決まった左宗棠軍費白銀1千万両を朝廷求め国庫から5百万両捻出され、諸外国から5百万両借款した。ドイツのテルゲ商会償還協力したとされる左宗棠武器製造工場蘭州製造局を設立し外国技術取り入れ新型兵器製造成功した1876年光緒2年3月左宗棠軍には湘軍劉錦棠25営、張曜14営、徐占彪の蜀軍5営があり、これに新疆の各拠点の清軍を合わせ総数89000となった6月劉錦棠軍がチムサに進駐し、ウルムチ近郊ジムサル占領したヤクブ・ベクは清軍の進攻聞き馬人得・馬明・白彦虎らをウルムチなど要地配備し主力2万人はトゥルファントクスンに、ヤクブ・ベクトクスン督戦当たった8月17日、清軍はウルムチ北部米泉制圧し次いでウルムチ占拠し、さらにサンジ・シャヒリとフトビマナス北城陥落した11月6日マナス南城陥落した。 翌1877年光緒3年4月、清軍はウルムチ南下しダバンチェンの峠でヤクブ軍に壊滅的な打撃与えたその後達坂城砲撃ヤクブ・ベク軍は投降した。 清軍はトクスン5月にはトゥルファン制圧し白彦虎クチャ逃亡するヤクブ・ベク逃亡中の5月29日死亡するヤクブ・ベク死後白彦虎ヤクブ・ベク長男のベク・クーリ・ベクが抵抗継続するも、同年10月、清軍はクチャアクスウシュトゥルファン11月にはカシュガル占領し12月下旬までに西の4城を陥落させた。 1878年正月に清はイリ渓谷をのぞく新疆地方再征服した。ベク・クーリ・ベクと白彦虎ロシア逃れた。この時に白彦虎従った回民の子孫が現在のドンガン人である。

※この「清朝の新疆討伐」の解説は、「新疆の歴史」の解説の一部です。
「清朝の新疆討伐」を含む「新疆の歴史」の記事については、「新疆の歴史」の概要を参照ください。

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