清朝の新疆討伐
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1872年(同治11年)7月、清朝側は主戦派である左宗棠が兵を率いて蘭州に進駐し、新疆討伐への準備を開始した。 海防・塞防論争 しかし、1874年の日本による台湾出兵を受けて、沿海部各省は「台湾急なるを以て、西征を停解せん」と提議し、1875年(同治13年・光緒元年)、新疆出兵について朝廷内で争議(海防・塞防論争)が発生した。李鴻章ら海防派は新疆を放棄し、資金を海防に回すことを主張し、国庫を空にして西征を行うよりもイギリス人の条件をのみ、ヤクブ・ベクの独立を認め朝貢させればよいと主張した。塞防派である左宗棠は、新疆を失えばかの地は必然的にイギリスかロシアの影響下に入り、西北部の防御の要を失いかえってもっと多くの兵力を西北防御に費やすことになり、また新疆を失えば国威が衰え、民心を失い、諸外国はつけあがるゆえかえって海防に支障をきたすことになるだろうと主張した。 満州人の軍機大臣の文祥(ウェンシャン)は左宗棠の建議を奏上、朝廷の摂政・西太后は左宗棠の塞防提案を裁可し、同1875年に左宗棠は新疆討伐の総司令・欽差大臣に任命され、金順を副将に、新疆討伐が決まった。左宗棠は軍費白銀1千万両を朝廷に求め、国庫から5百万両が捻出され、諸外国から5百万両借款した。ドイツのテルゲ商会が償還に協力したとされる。左宗棠は武器製造工場の蘭州製造局を設立し、外国の技術を取り入れ新型兵器の製造に成功した。 1876年(光緒2年)3月、左宗棠軍には湘軍の劉錦棠軍25営、張曜軍14営、徐占彪の蜀軍5営があり、これに新疆の各拠点の清軍を合わせ総数8万9000人となった。 6月に劉錦棠軍がチムサに進駐し、ウルムチ近郊のジムサルを占領した。ヤクブ・ベクは清軍の進攻を聞き、馬人得・馬明・白彦虎らをウルムチなど要地に配備し、主力の2万人はトゥルファンとトクスンに、ヤクブ・ベクはトクスンで督戦に当たった。8月17日、清軍はウルムチ北部米泉を制圧し、次いでウルムチを占拠し、さらにサンジ・シャヒリとフトビとマナス北城が陥落した。11月6日にマナス南城も陥落した。 翌1877年(光緒3年)4月、清軍はウルムチを南下しダバンチェンの峠でヤクブ軍に壊滅的な打撃を与えた。その後達坂城を砲撃、ヤクブ・ベク軍は投降した。 清軍はトクスン、5月にはトゥルファンを制圧し、白彦虎はクチャへ逃亡する。ヤクブ・ベクは逃亡中の5月29日に死亡する。 ヤクブ・ベク死後は白彦虎とヤクブ・ベクの長男のベク・クーリ・ベクが抵抗を継続するも、同年10月、清軍はクチャ、アクス、ウシュトゥルファン、11月にはカシュガルを占領し、12月下旬までに西の4城を陥落させた。 1878年正月に清はイリ渓谷をのぞく新疆地方を再征服した。ベク・クーリ・ベクと白彦虎はロシアに逃れた。この時に白彦虎に従った回民の子孫が現在のドンガン人である。
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