清朝の東部チベット支配とは? わかりやすく解説

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清朝の東部チベット支配

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 06:32 UTC 版)

中華人民共和国によるチベット併合」の記事における「清朝の東部チベット支配」の解説

雍正のチベット分割(1724年 - 1732年)の際に、西藏青海のいずれにも組み込まれなかった各地諸侯たちは、甘粛四川雲南など隣接する中国各省に分属し兵部通じて土司称号与えられ所領安堵をうけることとなった19世紀なかば、ニャロン地方領主グンポナムギャルが急速に勃興し四川省所属する諸侯制圧し清朝対し册封と、征服地に対す支配権確認求めた。清の朝廷はグンポナムギャルを阻止し、清を宗主として仰ぐ諸侯救援せねばならない立場にあるためこれを拒否したが、太平天国の乱英仏とのトラブルかかえており、グンポナムギャルをとがめて諸侯旧領復帰させる力はなく、解決ガンデンポタン委ねたガンデンポタン軍はディチュ河を東に越えてカム地方東部侵攻数年をかけてグンポナムギャルを追いつめ、1863年にグンポナムギャルの本拠ニャロン攻略、グンポナムギャルに追われていた諸侯旧領復帰させた。清朝は、「四川省内の戦乱」を鎮圧したガンデンポタン戦費支払余裕もなかったため、その代償として、ガンデンポタンによるニャロン領有近隣諸侯対す支配権みとめたガンデンポタンはニャロン・チーキャプ(総督府)を設置しチーキャプ総督)を派遣してこれを統治することとなった清国は、中国における諸反乱をほぼ収束させると、清末新制着手した。「清末新制」は、清国における国家体制近代化であるが、チベットモンゴルなどに対しては、従来中国とは別個の法制行政制度のもと、盟・旗の長や土司職にある諸侯たち、ガンデンポタンなど、その民族自身による統治委ねてきた体制根本的に覆し、省・州・県を設けて中国組み込むことを目指す、というものであった東トルキスタンでは、すでに1878年に省制が施行され行政機構中国化達成されていた)。 四川総督趙爾豊は、1905年蜀軍四川軍)を率いてカム地方東部侵攻諸侯軍事制圧したのち取り潰し宣言しつつ西進、ニャロン・チーキャプを転覆してガンデンポタン管轄領域奥深くまで侵入し1910年にはラサ占領するいたったガンデンポタンの長ダライ・ラマ13世インド逃れた。趙はカム地方諸侯ガンデンポタンによる支配排し従来ガンデンポタン統治にあったカム地方西部カム地方東部あわせた領域に「西康省」を、中央チベットには「西蔵省」を設けよう試みたしかしながら1911年中国辛亥革命勃発、趙は成都戻ったところを革命派殺害されカム地方東端からラサにいたるまでのチベット各地に趙が配置した軍事・行政機構は、チベット側の反撃により徐々に切り崩されていくこととなる。

※この「清朝の東部チベット支配」の解説は、「中華人民共和国によるチベット併合」の解説の一部です。
「清朝の東部チベット支配」を含む「中華人民共和国によるチベット併合」の記事については、「中華人民共和国によるチベット併合」の概要を参照ください。

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