清朝の軍人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 02:26 UTC 版)
黎元洪の父は太平天国の乱鎮圧に当たった清朝の軍人であり、彼自身も軍人への道を志す。1889年、天津の北洋水師学堂を卒業した黎元洪はそのまま海軍に進み、広東艦隊の巡洋艦「広甲」に機関士として乗船する。この広甲は1892年に北洋艦隊に編入され、1894年の日清戦争にも参加した。同年9月の黄海海戦で乗艦の広甲が敵前逃亡後に座礁するが、泳げなかった黎元洪は命綱を頼りに漂流していたところを友軍に救助され、九死に一生を得ている。 1895年春、黎元洪は両江総督張之洞が新たに洋式海軍を組織しようとしているのを聞きつけ、南京の張之洞に面会を申し込む。張之洞の知己を得た彼は海軍ではなく新たな陸軍の創設に携わる。この時期日本に留学して軍人としての専門教育を受け、帰国後はドイツ人教官と共に新軍の訓練教官を務めた。1904年に張之洞が湖広総督に再任されると、黎元洪も随伴して武漢に赴任する。ここで改めて湖北新軍が組織され、1906年に黎元洪は湖北新軍の第21混成旅団長となる。1907年に張之洞が軍機大臣となって中央に戻ってから後も、彼は湖北新軍の将校として、武漢の治安維持(主に革命派の弾圧)に務めた。
※この「清朝の軍人として」の解説は、「黎元洪」の解説の一部です。
「清朝の軍人として」を含む「黎元洪」の記事については、「黎元洪」の概要を参照ください。
- 清朝の軍人としてのページへのリンク