チベット侵攻と虐殺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/24 09:13 UTC 版)
「フランシス・ヤングハズバンド」の記事における「チベット侵攻と虐殺事件」の解説
詳細は「イギリスのチベット遠征」を参照 ロシアのヒンドゥークシュ山脈やチベットへの影響力深化に悩まされたインド総督のジョージ・カーゾン卿の任で、1902年から1904年までチベット長官を務めた。この時分には階級も少佐に出世していた。 1903年から翌年にかけて、ヤングハズバンドはカーゾン総督の命で、シッキム政務官のジョン・クロード・ホワイト及びアニー・ロイル・テイラー(英語版)とともにチベット探検に乗り出した。しかしこれはシッキム=チベット間の国境問題を解決するための、中央の指示を超えた「侵攻」になってしまった 。 チベット国境から100キロほど行ったギャンツェへの道中、探検隊は地元のチベット人と対立し、チベット人民兵600から700人(多くは僧侶)を虐殺する惨事へと発展した。死傷者の数には諸説あり、イギリス側の犠牲者5人に対して5000人のチベット人が殺されたとする推計もある。英軍はブータンのウゲン・ワンチュク国王から援助を受けていたため、国王の貢献に対してナイトの称号を贈った。 1891年、ヤングハズバンドはインド帝国勲章の勲三等を受勲し、1904年には勲二等に叙された。1917年には「インドの星勲章」の勲二等も賜った。1901年にはカイザール=イ=ヒンド・メダルを受章した。 イギリスに帰国する前の1906年、ヤングハズバンドはイギリス人官吏としてカシミールに赴任し、そこで多くのクラブや協会に加わった。軍内では1908年に中佐に昇格。第一次世界大戦時には「ファイト・フォア・ライト」 (Fight for Right) という愛国運動を展開した。 1919年になると王立地理協会の会長に就任、その2年後にエベレスト委員会の委員長になった。彼はジョージ・マロリーなどの登山家にたいして、エベレスト行を積極的に働きかけた。エベレスト探検隊はそれ以前のチベット探検と同じルートを進んだ。 1938年にはチベット遠征を計画していたエルンスト・シェーファーの説得にかかったが、当人の希望で実現しなかった。
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