ヤクブ・ベク没後の動向
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劉錦棠軍は11月にカシュガルを制圧した。ロシアは露土戦争をはじめており、清軍の動向に対応できなかった。翌1878年、東トルキスタンは清朝によって再征服された。 1879年、清は9カ月にわたるロシアとの交渉の末、10月2日、リヴァディア宮殿で十八カ条条約(リヴァディア条約)に調印した。しかしこの条約はロシア側の意向に沿ったもので、イリ西部とイリ南部をロシアに割譲し、ハミ、トルファン、ウルムチなど7箇所にロシア領事館を設置し、さらにロシアとの免税貿易を許可するという内容だった。 清側では朝野の議論は沸騰し、左宗棠はロシアとの開戦を主張した。結局、外交を担当した崇厚は西太后によって死刑を宣告されたが、イギリスが清側にロシアを怒らせないようと崇厚死刑恩赦を進言、清はそれを受けて恩赦を決定する。 ロシア側は清との戦争を準備し、軍艦を黄海へ派遣し、他方、左宗棠はイリ攻撃作戦を練ったうえで1880年4月、粛州を出発、ハミにいたる。しかし、左宗棠は「京備顧問」として朝廷に戻され、ロシアとの和平交渉が開始され、1881年2月、イリ条約が締結された。
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