ヤクブ・ベク政権とは? わかりやすく解説

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ヤクブ・ベク政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 19:33 UTC 版)

新疆の歴史」の記事における「ヤクブ・ベク政権」の解説

詳細は「回民蜂起」および「ヤクブ・ベクの乱」を参照 1864年同治3年)夏、カシュガルキルギス人シディク・ベク回民の金相印と蜂起した。翌1865年同治4年)、コーカンド・ハン国のアリム・クリーは、ヤクブ・ベク率い軍団派遣しカシュガル・ホージャ家のブズルグ・ホージャ(ワリー・ハンの弟)とともにカシュガル入りシディク・ベク軍を撃破したヤクブ・ベク1865年4月下旬ヤルカンド攻撃失敗し、さらにクチャのラシッディーン・ホージャの軍に大敗したヤクブ・ベクは軍を整え同年9月1日、清軍が守るカシュガル漢城攻撃カシュガル弁事大臣の奎英(クイイン)は自殺し、何歩投降した者はイスラム教への改宗余儀なくされた。 1865年5月タシケント攻め込んできたロシア軍との戦いでコーカンド・ハン国のアリム・クリーは命を落としコーカンド・ハン国の兵はヤクブ・ベク合流した勢力増大し、かつイギリスオスマン・トルコからの援助得たヤクブ・ベクカシュガルホータンアクス占領しクチャ以外の天山南路支配下に置く。 こうしてヤクブ・ベクによって新疆大半清か離脱し、旧清朝中央アジア大半支配するムスリム政権樹立した1867年ヤクブ・ベクバダウレト・ハン名乗って名実ともに支配者となる。1867年5月にはクチャコルラ征服して天山南路統一しシャリーアに基づく統治開始したブハラ・ハン国ヤクブ・ベクに対してアタリク・ガジ(信仰守護者)の称号与えた19世紀半ばには中央アジアめぐって大英帝国ロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されており、すでにイギリス1849年には英領インド維持するためパンジャブ地方進出しロシア帝国1853年シルダリヤ進出していた。 ロシア帝国は、1865年3月タシュケント現在のウズベキスタン首都)へ侵攻1867年トルキスタン総督府設置し中央アジアへの進出基地とした。 1868年にはサマルカンド占領してブハラ・ハン国占領する1868年3月にはコーカンド・ハン国ロシアとの間に保護条約締結した1868年イギリス (グレートブリテンおよびアイルランド連合王国) は新疆チベット当地方での英国分離工作一世期以上の長きに渡る)をロシアインドとの緩衝地帯にする為、特使派遣してヤクブ・ベク政権を承認し以後ヤクブ・ベクイギリスから武器供給を受ける。1870年ロシアもヤクブ・ベク政権を承認した1870年同治9年)、ヤクブ・ベク軍はトゥルファン攻略し新疆東部河西回廊連絡断ち白彦虎率い陝西省甘粛省回民蜂起軍の残党吸収し1871年末までに妥明軍を破ってウルムチ・マナス・ピチャンを占領した。 そのため同年にはロシアイリ地方への進駐踏み切った。しかしヤクブ・ベク政権とロシアの関係は良好で、1872年には通商条約締結して貿易開始した1874年にはイギリス通商条約結んで大使交換している。さらにオスマン帝国スルタンアブデュルアズィズからアミールに封ぜられ、軍事教官派遣受けた。 なおロシア1873年にはヒヴァ・ハン国占領1874年にはトルキスタン軍管区設置ロシア保護国になったコーカンド・ハン国内乱が起こるとロシア軍1876年2月19日侵攻コーカンド・ハン国滅ぼした。 こうして3ハーン国をロシア帝国保護国とし、フェルガナ盆地全域支配下収め、さらに1880年には遊牧集団トルクメン人ギョクテペの戦い制圧しトルキスタン一帯ロシア帝国の支配下に組み入れた

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ヤクブ・ベク政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:29 UTC 版)

ヤクブ・ベクの乱」の記事における「ヤクブ・ベク政権」の解説

こうしてヤクブ・ベク政権が成立した1865年4月下旬ヤルカンド攻撃した失敗し、引き返す途中クチャのラシッディーン・ホージャの軍に遭遇し大敗したヤクブ・ベクは軍を整え、清軍が守るカシュガル漢城攻撃した9月1日カシュガル弁事大臣の奎英(クイイン)は自殺し守備の何歩投降し投降した者はイスラム教への改宗余儀なくされた。また1865年5月タシケント攻め込んできたロシア軍との戦いでアリム・クリーは命を落とし9月までに約7千の兵が国境越えてカシュガル逃れヤクブ・ベク合流した。それによって勢力増大したヤクブ・ベクカシュガルホータン占領した。この時ブズルク・ホージャはヤクブ・ベク排除しようとしたが、逆にヤクブ・ベク追放されてしまった。さらにヤクブ・ベクはラシッディーン・ホージャの勢力打ち破りアクス占領しクチャ以外の天山南路支配下置いた

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