諸外国の外交に奔走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 13:57 UTC 版)
この頃、明治維新期の日本が台頭して李氏朝鮮の開国を要求し始めた。清から見れば朝鮮は朝貢関係で成り立っており、朝鮮および日本との関係をどうするか苦悩することになる。 李鴻章は同治3年(1864年)から日本の内情を探りだし、総理衙門に日本の連携を呼びかけた。これは西洋列強を脅威と捉え、富国強兵に邁進する日本と組んで西洋に対抗することを掲げているが、逆に日本が西洋と組んで敵に回る可能性も示唆している。この理念を基に同治9年(1870年)9月、清を訪れた柳原前光ら日本使節団と天津で会談、同治10年(1871年)までに日本との提携を記した草案の作成を担当し、同年9月に伊達宗城・柳原前光ら使節団と日清修好条規を結んだ。しかし、内容は平等条約だったが、第1条に記された相互不可侵とされた所属邦土の解釈を巡り、後に両国が衝突する元となる。 同年、北でロシア帝国が新疆北部のイリを占拠、西からヤクブ・ベクが新疆を制圧する事態が発生(ヤクブ・ベクの乱)。陝甘総督左宗棠が出兵支度を整えようとしたが、李鴻章はヤクブ・ベクが独立政権を樹立、イギリス・ロシア双方が承認を与えた事実に基づき、清も朝貢国としてヤクブ・ベク政権を承認、浮いた遠征費用を海防に回す提案を同治13年(1874年)に政府に出した。これがロシアを仮想敵国とみなす塞防派の左宗棠らに非難され、海防・塞防論争が起こったが、光緒元年(1875年)に左宗棠が提出した新疆保持案に政府が同意したため、海防・塞防どちらにも費用を回す折衷案に落ち着いた。左宗棠が出兵しヤクブ・ベクの乱は光緒3年(1877年)までに平定、ロシアも光緒7年(1881年)に交渉でイリを返還したため新疆は清の手に取り戻した。 同治13年(1874年)、日本が台湾出兵を強行すると積極的に関わらず、総理衙門が日本と交渉した末、日本に賠償金を支払った。李鴻章は大久保利通に「東洋の団結」を呼びかけた。光緒2年(1876年)、江華島事件に関連して、朝鮮の宗属関係について日本の森有礼と協議。ここで所属邦土に関する解釈で揉めたが、日本との連携を重視する李鴻章は日本・朝鮮間の日朝修好条規締結に干渉せず静観した。 光緒5年(1879年)の日本による琉球処分についても、駐日公使何如璋が日本へ抗議しても同様の対処を取った。軍事力不足に加え、台湾・琉球が南洋通商大臣の担当区域であり李鴻章の管轄外という事情もあり、積極的な対策はしなかった。光緒6年(1880年)には中国通の曽根俊虎によってアジア主義の先駆けである興亜会の結成を支援し、駐日公使の何如璋も参加した。 しかし、光緒7年(1881年)以降は朝鮮との外交も、朝貢国との関係を扱う礼部から北洋大臣へと移管され、それまでは控えられていた朝鮮の内政や外交への干渉が強まり、朝鮮の属国化が進んだ。光緒8年(1882年)に朝鮮でクーデターが勃発すると(壬午事変)、馬建忠を朝鮮へ派遣して大院君を拉致したことや、光緒10年(1884年)に親日派が親清派へ甲申政変を起こした時も部下の袁世凱率いる軍勢を派遣して親清政権を復活させたことがその表れである。この間、光緒8年(1882年)に母が亡くなったため一時期辞職、張樹声が直隷総督兼北洋大臣に就任したが、朝鮮への対応は引き継がれた。 イギリス・フランスに対しては譲歩の姿勢を取り、光緒元年にマーガリー事件が発生すると駐在大使トーマス・ウェードと協議して光緒2年(1876年)に芝罘条約を締結、開港場を増やし通商上の特権を与える権利をイギリスに認めた。光緒10年(1884年)の清仏戦争においては早々に講和を主張、既に開戦前からフランス駐在大使フレデリック・ブレーや武官フルニエと協議して光緒8年(1882年)と光緒10年(1884年)に停戦協定を結んだが、清とフランス双方の強硬派に押し切られ実行力を持たなかった。しかしなおも交渉を諦めず、ベトナムに対する宗主権をフランスに明け渡し、光緒11年(1885年)6月に天津条約を締結している。 以上の外交で、李鴻章は朝貢関係に基づく周辺の属国を保持しようと列強の交渉に臨んだが、列強に受け入れられないと妥協して被害を最小限に抑える方針で動き、外国との関係を保ちながら属国も存続させようとした。一方で洋務運動の限界も弁え、同治13年(1874年)に人材育成のため科挙に科学・工学など実学を盛り込む提案をしたが、保守派の大反対で挫折したことを部下の劉秉璋に宛てて嘆いている。 フランスに先立つ同年4月、甲申政変の後処理を巡り日本の伊藤博文と天津で交渉を行い、天津条約を結び、朝鮮の両軍撤退と再出兵に関する規約を記した。この時李鴻章は伊藤を評価する手紙を総理衙門に出しているが、両者は10年後に再び交渉の席で出会うことになる。また、北洋艦隊(後の北洋軍)の整備に邁進し日本を威圧する目的で光緒12年(1886年)と光緒17年(1891年)に長崎へ寄港、光緒12年(1886年)の寄港中に乱闘事件(長崎事件)が発生している。
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