マーガリー事件とは? わかりやすく解説

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マーガリー事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/23 23:15 UTC 版)

マーガリー事件
各種表記
繁体字 馬嘉理事件
簡体字 马嘉理事件
拼音 Mǎjiālǐ Shìjiàn
英文 Margary Affair
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マーガリー事件は、1875年に起きたイギリス人外交官オーガスタス・レイモンド・マーガリー (Augustus Raymond Margary)の殺害事件に端を発する、中英関係英語版の危機である[1][2]

概要

イギリス駐華公使館員だった下級外交官のマーガリーは、英領インド中国を結ぶ陸路の貿易ルートを探るため、上海から中国西南部を経て上ビルマバモーに派遣され、そこでホレス・ブラウン大佐に会うことになっていた[3][4]。マーガリーは、四川省貴州省雲南省を経由する約2,900キロメートルの行程を半年かけて移動し[5]1874年末にバモーでブラウンと面会した。上海への帰路、マーガリーは往路に通った道が安全ではないという噂を聞き、雲南省騰衝を経由するルートに変更した。しかし、現地の役人に到着を知らせていなかったため、現地住民と対立してしまったのである。1875年2月21日ビルマの境界付近の蛮允(マンユン、現在の雲南省徳宏タイ族チンポー族自治州盈江県太平鎮芒允)で起きた衝突で、彼と4人の中国人スタッフが現地住民のチンポー族に殺害された[6]

この事件は外交上の危機を招き、イギリス当局が清国政府に圧力をかける格好の口実となった。イギリス側は清に厳重な抗議を行った。この危機は、翌1876年にイギリス公使トーマス・ウェード李鴻章が、事件に無関係の条件も含まれた芝罘条約(煙台条約)に調印することによって、一応の解決を見た。

脚注

  1. ^ Correspondence Respecting the Attack on the Indian Expedition to Western China, and the Murder of Mr. Margary. Chinese Materials Center. (1876). p. 46. https://books.google.com/books?id=cEE6AQAAMAAJ&q=horace+browne+manwyne+chinese&pg=PA46 
  2. ^ http://www.mekong.ne.jp/directory/history/margary.htm
  3. ^ Great Britain. Parliament. House of Commons (1876). Parliamentary Papers, House of Commons and Command. H.M. Stationery Office. p. 4. https://books.google.com/books?id=-EcTAAAAYAAJ&q=horace+browne+manwyne+chinese&pg=RA4-PA46 
  4. ^ Great Britain. Parliament. House of Commons (1877). Accounts and Papers of the House of Commons. Ordered to be printed. p. 1. https://books.google.com/books?id=lTlcAAAAQAAJ&q=horace+browne+manwyne+chinese&pg=RA1-PA86 
  5. ^ John Anderson (1876). Mandalay to Momien: A Narrative of the Two Expeditions to Western China of 1868 and 1875, Under Colonel Edward B. Sladen and Colonel Horace Browne. Macmillan. p. 417. https://books.google.com/books?id=aGMdAAAAMAAJ&q=horace+browne+manwyne+chinese&pg=PA417 
  6. ^ Thomas Humphry Ward (1885). Men of the Reign: A Biographical Dictionary of Eminent Persons of British and Colonial Birth who Have Died During the Reign of Queen Victoria; Ed. by Thomas Humphry Ward. G. Routledge and sons. p. 600. https://books.google.com/books?id=8-dFAQAAIAAJ&q=horace+browne+manwyne+chinese&pg=PA600  The British Quarterly Review. L. Scott Publishing Company. (1876). p. 261. https://books.google.com/books?id=JrBHAQAAMAAJ&q=horace+browne+manwyne+chinese&pg=PA261 

参考文献

関連項目


マーガリー事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 07:54 UTC 版)

オーガスタス・レイモンド・マーガリー」の記事における「マーガリー事件」の解説

詳細は「マーガリー事件」を参照 英領インド中国を結ぶ陸路貿易ルートを探るため、マーガリー上海から中国西南部経て上ビルマバモー派遣され、そこでホレス・ブラウン大佐に会うことになっていた。マーガリーは、四川省貴州省雲南省経由する約2,900キロメートル行程半年かけて移動し1874年末にバモーブラウン面会した上海へ帰路マーガリー往路通った道が安全ではないという噂を聞き雲南省騰衝を経由するルート変更した。しかし、現地役人到着知らせていなかったため、先住民対立し1875年2月21日に彼と4人の中国人スタッフ現地住民チンポー族殺害された。 ジョナサン・スペンスによればマーガリービルマから雲南へのルートを探る調査隊の一員だったという。スーザン・オーリアン(英語版)は、これらとは異な説明をしている。オーリアンによれば、「言語学者植物採集家のオーガスタス・マーガリーは、長江航海中、歯痛リューマチ胸膜炎赤痢などを乗り越え任務終えてバモー越えて航海したときに殺害された」。

※この「マーガリー事件」の解説は、「オーガスタス・レイモンド・マーガリー」の解説の一部です。
「マーガリー事件」を含む「オーガスタス・レイモンド・マーガリー」の記事については、「オーガスタス・レイモンド・マーガリー」の概要を参照ください。

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