マーガリー事件
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マーガリー事件 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 馬嘉理事件 |
簡体字: | 马嘉理事件 |
拼音: | Mǎjiālǐ Shìjiàn |
英文: | Margary Affair |
マーガリー事件は、1875年に起きたイギリス人外交官オーガスタス・レイモンド・マーガリー (Augustus Raymond Margary)の殺害事件に端を発する、中英関係の危機である[1][2]。
概要
イギリス駐華公使館員だった下級外交官のマーガリーは、英領インドと中国を結ぶ陸路の貿易ルートを探るため、上海から中国西南部を経て上ビルマのバモーに派遣され、そこでホレス・ブラウン大佐に会うことになっていた[3][4]。マーガリーは、四川省、貴州省、雲南省を経由する約2,900キロメートルの行程を半年かけて移動し[5]、1874年末にバモーでブラウンと面会した。上海への帰路、マーガリーは往路に通った道が安全ではないという噂を聞き、雲南省騰衝を経由するルートに変更した。しかし、現地の役人に到着を知らせていなかったため、現地住民と対立してしまったのである。1875年2月21日、清とビルマの境界付近の蛮允(マンユン、現在の雲南省徳宏タイ族チンポー族自治州盈江県太平鎮芒允)で起きた衝突で、彼と4人の中国人スタッフが現地住民のチンポー族に殺害された[6]。
この事件は外交上の危機を招き、イギリス当局が清国政府に圧力をかける格好の口実となった。イギリス側は清に厳重な抗議を行った。この危機は、翌1876年にイギリス公使トーマス・ウェードと李鴻章が、事件に無関係の条件も含まれた芝罘条約(煙台条約)に調印することによって、一応の解決を見た。
脚注
- ^ Correspondence Respecting the Attack on the Indian Expedition to Western China, and the Murder of Mr. Margary. Chinese Materials Center. (1876). p. 46
- ^ http://www.mekong.ne.jp/directory/history/margary.htm
- ^ Great Britain. Parliament. House of Commons (1876). Parliamentary Papers, House of Commons and Command. H.M. Stationery Office. p. 4
- ^ Great Britain. Parliament. House of Commons (1877). Accounts and Papers of the House of Commons. Ordered to be printed. p. 1
- ^ John Anderson (1876). Mandalay to Momien: A Narrative of the Two Expeditions to Western China of 1868 and 1875, Under Colonel Edward B. Sladen and Colonel Horace Browne. Macmillan. p. 417
- ^ Thomas Humphry Ward (1885). Men of the Reign: A Biographical Dictionary of Eminent Persons of British and Colonial Birth who Have Died During the Reign of Queen Victoria; Ed. by Thomas Humphry Ward. G. Routledge and sons. p. 600 The British Quarterly Review. L. Scott Publishing Company. (1876). p. 261
参考文献
- Margary, Augustus Raymond, and Rutherford Alcock. The Journey of Augustus Raymond Margary, from Shanghae to Bhamo, and Back to Manwyne: From His Journals and Letters, with a Brief Biographical Preface. London: Macmillan and co., 1876.
- Wang, Shên-tsu. The Margary Affair and the Chefoo Agreement. London, New York: Oxford University Press, 1940.
関連項目
マーガリー事件
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「オーガスタス・レイモンド・マーガリー」の記事における「マーガリー事件」の解説
詳細は「マーガリー事件」を参照 英領インドと中国を結ぶ陸路の貿易ルートを探るため、マーガリーは上海から中国西南部を経て上ビルマのバモーに派遣され、そこでホレス・ブラウン大佐に会うことになっていた。マーガリーは、四川省、貴州省、雲南省を経由する約2,900キロメートルの行程を半年かけて移動し、1874年末にバモーでブラウンと面会した。上海への帰路、マーガリーは往路に通った道が安全ではないという噂を聞き、雲南省騰衝を経由するルートに変更した。しかし、現地の役人に到着を知らせていなかったため、先住民と対立し、1875年2月21日に彼と4人の中国人スタッフが現地住民のチンポー族に殺害された。 ジョナサン・スペンスによれば、マーガリーはビルマから雲南へのルートを探る調査隊の一員だったという。スーザン・オーリアン(英語版)は、これらとは異なる説明をしている。オーリアンによれば、「言語学者で植物採集家のオーガスタス・マーガリーは、長江を航海中、歯痛、リューマチ、胸膜炎、赤痢などを乗り越え、任務を終えてバモーを越えて航海したときに殺害された」。
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