シディク・ベク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:29 UTC 版)
1864年夏、カシュガルでもムスリムの蜂起が起き、キルギス人のシディク・ベクが回民の金相印と連携して王を称した。だが、蜂起は他の地域ほどには成功しなかった。シディク・ベクはイェンギサールを攻略することができなかったし、カシュガル城内も清の協力者であるクトルク・ベクに押さえられていた。1865年になると地域の制圧ができない状況に対し、キルギス人と回民はコーカンド・ハン国の支配者であるアリム・クリーに物心両面での援助を求めた。精神的な援助はブズルグ・ホージャによってもたらされた。彼はカシュガルの人々の宗教的な権威である白山党(アーファーキーヤ)のホージャであり、ジャハーンギール・ホージャの息子、ワリー・ハンの弟であった。物質的な支援としてヤクブ・ベクがコーカンド・ハン国の兵とともに派遣された。 シディク・ベクと配下のキルギス人は既にカシュガルのムスリム地区を確保していたが、ブズルク・ホージャとヤクブ・ベクが到着するとクーデターによりその支配は打ち砕かれた。1865年3月にシディク・ベクは7千の兵でカシュガルを襲撃したが、ヤクブ・ベクはわずか百名の騎兵で夜襲をかけて撃退した。シディク・ベクの勢力を傘下に収めて勢力を拡大し、4月11日にイェンギサールを陥落させ、さらにシディク・ベクの残党を東トルキスタンから放逐した。
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