シテ方のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 17:55 UTC 版)
この道入の子の大蔵大夫は甲斐武田氏に仕えて同家の猿楽大夫となった。大蔵大夫の子は土屋新之丞と土屋藤十郎(大久保長安)であるが、ふたりとも大蔵流の猿楽を継承しなかったことから、甲斐における大蔵流は途絶え、金春流では金春禅曲の三男を大蔵庄左衛門とし、大蔵大夫を継がせた。こうして庄左衛門家流として大蔵座は再び上方に戻り、後に仙台藩お抱えとなり明治時代まで存続したが、その後廃絶した。ただし、伊達吉村が創始した金春大蔵流は登米町に「登米能(薪能)」として今日に残り、宮城県の無形民俗文化財の指定を受けている。 甲斐の大蔵氏は、土屋新之丞が長篠の戦いで戦死したため、大久保長安のみが残ったが、長安の死後に長安の男児は連座で全て刑死したため(大久保長安事件)、女系以外は血筋としても断絶した。
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