シテ方と囃子方の分離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 17:55 UTC 版)
金春座に関する人物で大蔵の名前が出てくる最も古い文献は、大乗院の『至徳三年記』の「2月9日・10日の薪猿楽」の記事であり、そこでは大蔵八郎が2月9日(ユリウス暦では、1386年3月9日)に金剛流と共演したことが書かれている。これは、観阿弥の没後2年足らずで、金春流は金春禅竹の父の弥三郎の時代であり、何らかの理由でその場では大蔵八郎が金春太夫であった弥三郎の代わりを務めた、という記録である。 金春禅竹の時代も、大蔵八郎の次代以降と思われる大蔵大夫の活動が文献に記されている。一方で、『四座役者目録』で大蔵の名を持つ最も古い人物である大蔵九郎能氏は禅竹より少しだけ後の囃子方の人物であり、能氏を囃子方の大蔵流の祖だと解釈すると、文献に登場するシテ方の大蔵大夫と能氏は別人であり、当時、あくまで金春流支流のシテ方大蔵流と観世座付きだった囃子方大蔵流は既にある程度分離していたことになる。 それ以降も代々の大蔵大夫の活躍は様々な文献に登場する。そして、戦国時代に金春家の血縁から出た大蔵大夫が大蔵道入である。『老人雑話』によると道入は金春岌蓮の弟であるが、年代的には疑問が残り、金春宗瑞の弟の可能性がある。道入の子のうち道違と道智はそれぞれ小鼓方と大鼓方の祖となり、末子(名称不詳)が大蔵大夫となった。
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