西郷の朝鮮使節派遣案
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「明治六年政変」の記事における「西郷の朝鮮使節派遣案」の解説
5月31日、釜山に設置されていた大日本公館代表広津弘信より、朝鮮政府が日本人の密貿易を取り締まる布告の中で、日本に対する無礼な字があったと報告した。参議・板垣退助は居留民保護を理由に派兵し、その上で使節を派遣することを主張した。西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。西郷の意見には後藤象二郎、江藤新平らが賛成した。太政大臣三条実美は丸腰では危険であり、兵を同行するべきとしたが、西郷は拒絶した。ただし決定は清に出張中の副島の帰国を待ってから行うこととなった。中国から帰国した副島は西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴く事を主張した。7月23日、木戸が帰国したが留守政府の現状に激怒し、大久保同様政府への復帰をボイコットし、政府打倒を目指して裏面で活動を行っていた。また征韓論に対して木戸は「朝鮮の我が交款を受けざる其無礼なる固り兵を挙げて伐つへし」としながらも、「力を養ふより先なるはなし」という意見書を提出している。 7月末より西郷は三条に遣使を強く要求したが、三条は西郷が必ず殺害されると見ていたためこれを許そうとはしなかった。西郷は7月29日の板垣宛書簡で、軍隊より先に使節を出せば朝鮮から「暴挙」「暴殺」に出るから「討つべきの名」が立つ、だから自分が使節になると主張し、8月14日の板垣宛書簡でも先に使節を出すやり方で「はめ込」めば「必ず戦うべき機会」になる、だから西郷を死なせては可哀そうなどと思わないでほしいと述べ、8月17日の板垣宛書簡でも「朝鮮が使者を暴殺するに違いないから、そうなれば天下の人は朝鮮を『討つべきの罪』を知ることができ、いよいよ戦いに持ち込むことができる」と述べたように、自らが殺害されることも織り込み済みであった。西郷が遣使を強硬に主張した理由について、西郷自身は「内乱を冀う心を外に移して、国を起こすの遠略」と述べている。参議大隈重信は政治的に手詰まりになり、旧主久光からも叱責されたことで失望落胆していた西郷が、征韓論の盛り上がりを見て朝鮮宮廷で殺害されることを最後の花道として望んだ、自殺願望ではないかと推測している。この頃西郷は中性脂肪やコレステロールの増加による脂質異常症が悪化し、明治天皇が派遣した医師テオドール・ホフマンの指示で下剤を服用していた。しかしこれは西郷の心身を衰弱させ、外出や閣議出席も控えるような状態となり、西郷自身も不治の病ではないかと考えていた。 一方で、高島鞆之助が「西郷を殺してまで朝鮮のカタをつけなければならぬことはない」と回想したように朝鮮問題がそこまで大きな問題と考えられていたわけではなく、朝鮮と戦争になれば宗主国の清との戦争になる危険もあったが、西郷はこれに対して何ら発言を残していない。また副島が対応していた宮古島島民遭難事件や樺太出兵問題なども並行して起こっていた情勢であった。さらに大物である西郷を失うことになる遣使に反対する声は、西郷に近い薩摩派の中にすらあった。 8月16日、西郷は三条の元を訪れ、岩倉の帰国前に遣使だけは承認するべきと強く要請した。このため翌8月17日の閣議で西郷の遣使は決定されたが、詳細については決まっていなかった。三条は箱根で静養中の明治天皇の元を訪れ、決定を奏上したが、「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき」という回答が下された。明治天皇は当時20歳そこそこであり、内藤一成は三条の意見をなぞったものに過ぎないと見ている。
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