西郷らの辞任とは? わかりやすく解説

西郷らの辞任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:03 UTC 版)

明治六年政変」の記事における「西郷らの辞任」の解説

岩倉10月23日参内し決定の経緯閣議による決定自分意見述べた上で明治天皇聖断で遣使を決めると奏上した。岩倉大久保らは宮中工作行っており、西郷征韓派が参内して意見述べることはできなかった。しかし天皇重大事であるから明日回答する返答し岩倉不安におちいっている。この日、西郷参議などを含む官職からの辞表提出し帰郷の途についた10月24日岩倉による派遣延期意見通り西郷辞表受理され参議近衛都督辞職した。ただし西郷陸軍大将については却下され大久保木戸らの辞表却下されている。24日には板垣江藤後藤副島らが辞表提出し25日受理された。更に西郷板垣後藤に近い官僚・軍人辞職した。特に近衛将兵大量に離脱したため、事実上解体追い込まれた。西郷派の士官辞職したものは100名、土佐藩出身士官40名が辞職して帰郷している。 前島密は以下のように回想している「『五年前西郷東京を去るの日、(大久保)公は之を留めんと欲せしや。また手段出づる所なかりしや。しかして別時臨み語りしことなかりしや』と問いしに、大久保之に答えて曰く『予が西郷分るるに臨み別に言う所なく、また争うの事もなかりき。彼はただ「何でもイヤダ」と云いしを以て、予も「然らば勝手にせよ」と言いたる位の物別れなり。彼は予の畏友なり。また信友なり。故に私情に於てもまた相離隔するを欲せずこれを以て予は力を盡してその西郷止めたりしかして彼唯イヤダの一言を以て一貫し去り遂に去年惨劇西南戦争)を演出せるは誠に残念至極なり。アア西郷当年イヤダの一言今なお予をしてまたイヤダの威を抱かしむ。片言といえどもイヤナ言もあるものかな」。

※この「西郷らの辞任」の解説は、「明治六年政変」の解説の一部です。
「西郷らの辞任」を含む「明治六年政変」の記事については、「明治六年政変」の概要を参照ください。

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