西郷らの辞任
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岩倉は10月23日に参内し、決定の経緯と閣議による決定と自分の意見を述べた上で、明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上した。岩倉と大久保らは宮中工作を行っており、西郷ら征韓派が参内して意見を述べることはできなかった。しかし天皇は重大事であるから明日回答すると返答し、岩倉は不安におちいっている。この日、西郷は参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途についた。10月24日、岩倉による派遣延期の意見が通り、西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を辞職した。ただし西郷の陸軍大将については却下され、大久保・木戸らの辞表も却下されている。24日には板垣・江藤・後藤・副島らが辞表を提出し、25日に受理された。更に西郷・板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職した。特に近衛の将兵が大量に離脱したため、事実上解体に追い込まれた。西郷派の士官で辞職したものは100名、土佐藩出身の士官40名が辞職して帰郷している。 前島密は以下のように回想している「『五年前西郷が東京を去るの日、(大久保)公は之を留めんと欲せしや。また手段の出づる所なかりしや。しかして別時に臨み相語りしことなかりしや』と問いしに、大久保之に答えて曰く『予が西郷と分るるに臨み、別に言う所なく、また争うの事もなかりき。彼はただ「何でもイヤダ」と云いしを以て、予も「然らば勝手にせよ」と言いたる位の物別れなり。彼は予の畏友なり。また信友なり。故に私情に於てもまた相離隔するを欲せず。これを以て予は力を盡してその西郷を止めたり。しかして彼唯イヤダの一言を以て一貫し去り、遂に去年の惨劇(西南戦争)を演出せるは誠に残念至極なり。アア西郷が当年イヤダの一言、今なお予をしてまたイヤダの威を抱かしむ。片言といえどもイヤナ言もあるものかな」。
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