薩摩藩、幕府との対応の協議と、清との駆け引きとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 薩摩藩、幕府との対応の協議と、清との駆け引きの意味・解説 

薩摩藩、幕府との対応の協議と、清との駆け引き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)

琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「薩摩藩、幕府との対応の協議と、清との駆け引き」の解説

明末混乱と清の勢力伸長は、琉球側もかねてから把握していた。1639年には清の北京攻撃に関する情報薩摩藩伝えており、1646年6月には幕府琉球側から確認に対してこれまで同様に明との生糸貿易継続指示している。また1646年段階琉球薩摩藩に対して、清側が弁髪強制するではないかとの懸念表明し対応について相談している。幕府琉球ルート以外からも中国情報収集努めていた。1646年8月には隆武帝使者長崎来航し日本側に援軍要請をした。隆武帝援軍要請聞きつけた薩摩藩幕府対し先陣務めたいとの意思表示まで示していた。 しかし1646年10月長崎到着した中国船から福州陥落情報入手した幕府は、援軍派遣中止決定する。そして清の攻勢日本にまで及ぶことを警戒し幕府諸大名に対して海防強化指示する。特に中国との距離が近い琉球中でも八重山諸島防衛体制強化必要性が高いと判断され1647年には幕府指示により薩摩藩警備兵派遣する至った。 ところで清軍に投降した泰久金正春ら琉球使節は、清軍の命令により謝必振とともに1646年12月北京へと向かった琉球使節北京へ向かう途上1647年2月には、順治帝諸外国からの朝貢受け入れ表明した4月北京入りした毛泰久金正春らは清側から歓迎され順治帝明か下賜され詔勅と印の引き渡し命じ返還受けた上で冊封を行うこととした。明か下賜され詔勅と印の引き渡しは、中国新し支配者として「明を捨てて清に仕える」ことを要求するもので、琉球以外の冊封受けていた諸国にも等しく命じられていた。また順治帝琉球の招撫のために謝必振を派遣することとした。 1647年6月、毛泰久金正春ら琉球使節、そして謝必振は北京出発して福州まで戻りその後琉球へ向かうことにしたが、明清交替期の混乱の中、福州に戻るまでまる1年かかってしまった。その間に毛泰久病死する1648年6月、ようやく福州まで戻ったものの、明の残存勢力南明)のひとつであった監国魯王の勢力阻まれ、やはり1年間福州に留まらざるを得なかった。この間琉球本国には毛泰久金正春ら琉球使節動静は全く伝えられておらず、行方不明状態であった。そこで使節行方調査する使者派遣したものの、海賊襲撃され1647年10月琉球逃げ戻っていた。そのような中で尚賢冊封を受けることなく1647年9月亡くなり、弟の尚質王位継いだ1649年6月、ようやく金正春ら琉球使節と謝必振は福州出発して琉球へと向かった。船は薩摩まで流され、いったん長崎まで回航された上、9月にようやく琉球到着した琉球使節帰還ばかりではなく清の使節である謝必振も琉球派遣され状況把握した薩摩藩は、対応策幕府協議している。薩摩藩幕府も清の使節への対応に頭を悩ませるというのも当時まだ明の残存勢力清との戦争継続しており、後述のように明の残存勢力からのアプローチ継続していたからである。結局明と清のいずれが勝利するのか状況見極めなければならず、当面はどちらつかずな対応で時間稼ぎをするしかない判断した。この結論琉球側に伝えられ琉球側も同意した1649年2月琉球監国魯王に使節派遣して朝貢をしていた。そして1649年6月には琉球監国魯王からの書状届けられていた。書状では琉球忠節賞し尚質冊封する意思示した加えて賊徒である清の勢力駆逐して明を復興する決意述べられていた。また監国魯王の部下からは、兵器火薬援助求め書状併せて届けられていた。琉球側としては清の側にも監国魯王の側にも一方的に肩入れするのは難しいと判断せざるを得なかった。 謝必振は首里城尚質琉球に対して、清への忠誠と、明が下賜した詔書、印の引き渡し命じる。尚質は清の招撫を受け入れ、投誠の表文提出することには応じたものの、明が下賜した詔書、印の引き渡しに関しては、明年順治帝即位慶賀使派遣するので、その際持参させると返答した。謝必振は琉球側のはっきりとしない対応に満足しなかったが、明年琉球慶賀使派遣することと、もし慶賀使派遣しなかった場合改めて清側から使節を送ることにして、清使謝必振の護送使として周国盛らを伴って福州向かいその後復命のために謝必振と周国盛は北京向かった琉球使節の周国盛は順治帝に投誠の表文提出する。その一方で琉球側は監国魯側から兵器火薬援助要請応じことはなかった。いずれにしてもこの時点では琉球側は清の側にも監国魯王の側にも一方的に肩入れすることは出来る限り避け等距離外交心がけていた。 1650年琉球側が約束した慶賀使清にやって来なかった。清からの使者再来予想される中、琉球薩摩藩今後の対応について頻繁に協議している。1651年翌年に探問使を派遣するに当たり、清宛と明宛の二つ国書持参し現地臨機応変対応することで琉球薩摩藩合意している。順治帝に投誠の表文提出した琉球使節の周国盛は、半ば人質扱い北京滞在させられていた。1651年9月琉球側から返事が来ないことに業を煮やした順治帝は、謝必振に再度琉球行き命じる。謝必振は周国盛を伴って福州戻ったが、すぐに琉球渡航することはせず、まずは琉球からの使節到着待ってみることにした。 謝必振の狙い通り1652年春に琉球からの探問使が福州到着した。しかし明が下賜した詔書、印は持参していなかった。福州役人たちは探問使を勾留尋問したが、謝必振のとりなし勾留解除された。謝必振は再び琉球に渡ることを決め1652年7月琉球到着する。謝必振は尚質琉球に対して琉球約束守ろうとせず清としては忠誠疑問抱いて仕方がない現状ありながら順治帝罪に問うことはせず、改めて招撫のために私を使節として派遣することにしたと告げた。また謝必振自身としても、これまで琉球清との関係取り持つために尽力してきたとの事情説明した。こうなるとさすがに琉球側としては清の意向従わないわけにはいかなくなる。薩摩藩了解取り付けた上で、謝必振に対して明の下賜した詔書、印を持参した慶賀使派遣約束し実際に1653年2月の謝必振帰国時に、明の下賜した詔書、印を持参した慶賀使同道することになった1653年2月順治帝即位慶賀使として馬宗毅、蔡祚隆が琉球出発した。謝必振も慶賀使同行し福州経て1654年3月北京到着した北京明か下賜され勅書、印を清側に引き渡すとともに国書提出する国書の中でまず1650年約束通り慶賀使派遣したが、海難事故遭って行方不明になってしまったようで、後になってその事実を把握した弁明するとともに明か下賜された印の代わりに改め清朝から印を賜り慶賀使の馬宗毅の手持ち帰りたいとしていた。これまで明の残存勢力の側には冊封意思示しながら、今回、清への使節冊封求めず、しかも自らの手で印を持ち帰りたい主張するなど、琉球側としては冊封使ら清の使節の来琉を望んでいなかったことは明らかである。まだ琉球側としては明、清との等距離外交姿勢堅持ようとしていた。 清は琉球側の意図見抜いた琉球側は慶賀使の馬宗毅らが印を持ち帰りたいとしているが、琉球清に帰順し最初冊封となるため、清の徳威を示し懐柔意思を示すために、冊封使派遣する方針決定された。つまり琉球側が望まない冊封使を清の意思として派遣することを決定したのである。この決定琉球、そして薩摩藩幕府困惑させることになる。琉球側は明、清との等距離外交政策放棄とともに、清の派遣する冊封使弁髪強要、そして皮弁冠服の使用停止指示することを恐れた皮弁冠服の供与など冠服に対す統制行ってきた明代のことを考えると、清も弁髪服制押し付けてくることが想定された。前述のように皮弁冠服は琉球王象徴となっており、王権象徴放棄王権そのものへの打撃となることを恐れたのである三者は対応を協議し1655年8月薩摩藩幕府に対して冊封使が清の習慣押し付けるうならば日本の恥ともなるので冊封使追い返すないし討ち果たすべきではないか幕府打診した。しかし幕府薩摩藩に対して琉球中国との関係性維持していかねば立ち行かなくなるので、清の冊封使からの指示には従うべきである」と、琉球冊封されている現実重視する判断示した江戸幕府国力低下著しかった明にさしたる脅威感じておらず、明に対して時に高圧的な態度臨んだ。しかし新興の清の脅威ひしひしと感じており、武力衝突という事態は回避しなければならなかった。結局琉球清に冊封されることを認めざるを得ず琉球日本と清の双方に従う体制固定化する。その中で清に対して琉球日本との関係を隠蔽する政策進められていくことになる。 なお琉球が明、清の冊封国であり続けることを薩摩藩幕府認めた理由としては、琉球通じて生の中国情報入手出来メリット重視したことも挙げられる1670年薩摩藩使者派遣され進貢使が入手した中国情勢についての報告行った。そして1678年以降進貢使は帰国後「唐之首尾御使者」として薩摩出向いて中国情報に関して報告を行うことが慣例化し、1870年まで続けられた。幕府自身長崎中国商人から情報の入手努めてはいたが、琉球進貢使は首都北京にまで出向いて得られ情報もたらした。清の脅威感じていることもあって、薩摩藩通して得られ琉球進貢使の中国情報幕府にとって利用価値が高いものであった

※この「薩摩藩、幕府との対応の協議と、清との駆け引き」の解説は、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の解説の一部です。
「薩摩藩、幕府との対応の協議と、清との駆け引き」を含む「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事については、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「薩摩藩、幕府との対応の協議と、清との駆け引き」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「薩摩藩、幕府との対応の協議と、清との駆け引き」の関連用語

1
4% |||||

薩摩藩、幕府との対応の協議と、清との駆け引きのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



薩摩藩、幕府との対応の協議と、清との駆け引きのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの琉球の朝貢と冊封の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS