薩摩藩、幕府との対応の協議と、清との駆け引き
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「薩摩藩、幕府との対応の協議と、清との駆け引き」の解説
明末の混乱と清の勢力伸長は、琉球側もかねてから把握していた。1639年には清の北京攻撃に関する情報を薩摩藩に伝えており、1646年6月には幕府は琉球側からの確認に対して、これまでと同様に明との生糸貿易の継続を指示している。また1646年の段階で琉球は薩摩藩に対して、清側が弁髪を強制するのではないかとの懸念を表明し、対応について相談している。幕府は琉球ルート以外からも中国情報の収集に努めていた。1646年8月には隆武帝の使者が長崎に来航して日本側に援軍の要請をした。隆武帝の援軍要請を聞きつけた薩摩藩は幕府に対し、先陣を務めたいとの意思表示まで示していた。 しかし1646年10月に長崎に到着した中国船から福州陥落の情報を入手した幕府は、援軍派遣の中止を決定する。そして清の攻勢が日本にまで及ぶことを警戒し、幕府は諸大名に対して海防強化を指示する。特に中国との距離が近い琉球、中でも八重山諸島は防衛体制の強化の必要性が高いと判断され、1647年には幕府の指示により薩摩藩が警備兵を派遣するに至った。 ところで清軍に投降した毛泰久、金正春ら琉球使節は、清軍の命令により謝必振とともに1646年12月に北京へと向かった。琉球使節が北京へ向かう途上の1647年2月には、順治帝が諸外国からの朝貢受け入れを表明した。4月に北京入りした毛泰久、金正春らは清側から歓迎され、順治帝は明から下賜された詔勅と印の引き渡しを命じ、返還を受けた上で冊封を行うこととした。明から下賜された詔勅と印の引き渡しは、中国の新しい支配者として「明を捨てて清に仕える」ことを要求するもので、琉球以外の冊封を受けていた諸国にも等しく命じられていた。また順治帝は琉球の招撫のために謝必振を派遣することとした。 1647年6月、毛泰久、金正春ら琉球使節、そして謝必振は北京を出発して福州まで戻り、その後琉球へ向かうことにしたが、明清交替期の混乱の中、福州に戻るまでまる1年かかってしまった。その間に毛泰久は病死する。1648年6月、ようやく福州まで戻ったものの、明の残存勢力(南明)のひとつであった監国魯王の勢力に阻まれ、やはり1年間福州に留まらざるを得なかった。この間、琉球本国には毛泰久、金正春ら琉球使節の動静は全く伝えられておらず、行方不明状態であった。そこで使節の行方を調査する使者を派遣したものの、海賊に襲撃されて1647年10月に琉球に逃げ戻っていた。そのような中で尚賢は冊封を受けることなく1647年9月に亡くなり、弟の尚質が王位を継いだ。 1649年6月、ようやく金正春ら琉球使節と謝必振は福州を出発して琉球へと向かった。船は薩摩まで流され、いったん長崎まで回航された上、9月にようやく琉球に到着した。琉球使節の帰還ばかりではなく清の使節である謝必振も琉球に派遣された状況を把握した薩摩藩は、対応策を幕府と協議している。薩摩藩も幕府も清の使節への対応に頭を悩ませる。というのも当時まだ明の残存勢力と清との戦争が継続しており、後述のように明の残存勢力からのアプローチも継続していたからである。結局、明と清のいずれが勝利するのか状況を見極めなければならず、当面はどちらつかずな対応で時間稼ぎをするしかないと判断した。この結論は琉球側に伝えられ、琉球側も同意した。 1649年2月、琉球は監国魯王に使節を派遣して朝貢をしていた。そして1649年6月には琉球に監国魯王からの書状が届けられていた。書状では琉球の忠節を賞し、尚質を冊封する意思を示した。加えて賊徒である清の勢力を駆逐して明を復興する決意が述べられていた。また監国魯王の部下からは、兵器と火薬の援助を求める書状が併せて届けられていた。琉球側としては清の側にも監国魯王の側にも一方的に肩入れするのは難しいと判断せざるを得なかった。 謝必振は首里城で尚質ら琉球側に対して、清への忠誠と、明が下賜した詔書、印の引き渡しを命じる。尚質は清の招撫を受け入れ、投誠の表文を提出することには応じたものの、明が下賜した詔書、印の引き渡しに関しては、明年、順治帝即位の慶賀使を派遣するので、その際に持参させると返答した。謝必振は琉球側のはっきりとしない対応に満足しなかったが、明年、琉球が慶賀使を派遣することと、もし慶賀使を派遣しなかった場合、改めて清側から使節を送ることにして、清使謝必振の護送使として周国盛らを伴って福州へ向かい、その後復命のために謝必振と周国盛は北京へ向かった。琉球使節の周国盛は順治帝に投誠の表文を提出する。その一方で琉球側は監国魯王側からの兵器と火薬の援助要請に応じることはなかった。いずれにしてもこの時点では琉球側は清の側にも監国魯王の側にも一方的に肩入れすることは出来る限り避け、等距離外交を心がけていた。 1650年、琉球側が約束した慶賀使は清にやって来なかった。清からの使者の再来が予想される中、琉球は薩摩藩と今後の対応について頻繁に協議している。1651年、翌年に探問使を派遣するに当たり、清宛と明宛の二つの国書を持参し、現地で臨機応変に対応することで琉球と薩摩藩は合意している。順治帝に投誠の表文を提出した琉球使節の周国盛は、半ば人質扱いで北京に滞在させられていた。1651年9月、琉球側からの返事が来ないことに業を煮やした順治帝は、謝必振に再度の琉球行きを命じる。謝必振は周国盛を伴って福州へ戻ったが、すぐに琉球へ渡航することはせず、まずは琉球からの使節の到着を待ってみることにした。 謝必振の狙い通り、1652年春には琉球からの探問使が福州に到着した。しかし明が下賜した詔書、印は持参していなかった。福州の役人たちは探問使を勾留、尋問したが、謝必振のとりなしで勾留は解除された。謝必振は再び琉球に渡ることを決め、1652年7月、琉球に到着する。謝必振は尚質ら琉球側に対して、琉球が約束を守ろうとせず清としては忠誠に疑問を抱いても仕方がない現状でありながら、順治帝は罪に問うことはせず、改めて招撫のために私を使節として派遣することにしたと告げた。また謝必振自身としても、これまで琉球と清との関係を取り持つために尽力してきたとの事情も説明した。こうなるとさすがに琉球側としては清の意向に従わないわけにはいかなくなる。薩摩藩の了解を取り付けた上で、謝必振に対して明の下賜した詔書、印を持参した慶賀使の派遣を約束し、実際に1653年2月の謝必振帰国時に、明の下賜した詔書、印を持参した慶賀使が同道することになった。 1653年2月、順治帝の即位慶賀使として馬宗毅、蔡祚隆が琉球を出発した。謝必振も慶賀使と同行し、福州を経て1654年3月に北京に到着した。北京で明から下賜された勅書、印を清側に引き渡するとともに、国書を提出する。国書の中でまず1650年に約束通り慶賀使を派遣したが、海難事故に遭って行方不明になってしまったようで、後になってその事実を把握したと弁明するとともに、明から下賜された印の代わりに改めて清朝から印を賜り、慶賀使の馬宗毅の手で持ち帰りたいとしていた。これまで明の残存勢力の側には冊封の意思を示しながら、今回、清への使節は冊封を求めず、しかも自らの手で印を持ち帰りたいと主張するなど、琉球側としては冊封使ら清の使節の来琉を望んでいなかったことは明らかである。まだ琉球側としては明、清との等距離外交の姿勢を堅持しようとしていた。 清は琉球側の意図を見抜いた。琉球側は慶賀使の馬宗毅らが印を持ち帰りたいとしているが、琉球が清に帰順して最初の冊封となるため、清の徳威を示し懐柔の意思を示すために、冊封使を派遣する方針が決定された。つまり琉球側が望まない冊封使を清の意思として派遣することを決定したのである。この決定は琉球、そして薩摩藩、幕府を困惑させることになる。琉球側は明、清との等距離外交政策の放棄とともに、清の派遣する冊封使が弁髪の強要、そして皮弁冠服の使用停止を指示することを恐れた。皮弁冠服の供与など冠服に対する統制を行ってきた明代のことを考えると、清も弁髪や服制を押し付けてくることが想定された。前述のように皮弁冠服は琉球王権の象徴となっており、王権の象徴の放棄は王権そのものへの打撃となることを恐れたのである。三者は対応を協議し、1655年8月、薩摩藩は幕府に対して冊封使が清の習慣を押し付けるようならば、日本の恥ともなるので冊封使を追い返すないし討ち果たすべきではないかと幕府に打診した。しかし幕府は薩摩藩に対して「琉球は中国との関係性を維持していかねば立ち行かなくなるので、清の冊封使からの指示には従うべきである」と、琉球が冊封されている現実を重視する判断を示した。 江戸幕府は国力の低下著しかった明にはさしたる脅威を感じておらず、明に対しては時に高圧的な態度で臨んだ。しかし新興の清の脅威はひしひしと感じており、武力衝突という事態は回避しなければならなかった。結局、琉球が清に冊封されることを認めざるを得ず、琉球が日本と清の双方に従う体制が固定化する。その中で清に対しては琉球と日本との関係を隠蔽する政策が進められていくことになる。 なお琉球が明、清の冊封国であり続けることを薩摩藩や幕府が認めた理由としては、琉球を通じて生の中国情報が入手出来るメリットを重視したことも挙げられる。1670年、薩摩藩に使者が派遣されて進貢使が入手した中国情勢についての報告を行った。そして1678年以降、進貢使は帰国後「唐之首尾御使者」として薩摩に出向いて中国情報に関しての報告を行うことが慣例化し、1870年まで続けられた。幕府自身も長崎で中国商人から情報の入手に努めてはいたが、琉球の進貢使は首都北京にまで出向いて得られた情報をもたらした。清の脅威を感じていることもあって、薩摩藩を通して得られた琉球進貢使の中国情報は幕府にとって利用価値が高いものであった。
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