薩摩藩:長州への配慮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:54 UTC 版)
いっぽう薩摩側の動きであるが、まず7月7日付で西郷が山県・品川宛で薩土盟約を結んだために西郷が挙兵のために長州へ降る予定が無くなったことを詫びる書簡を村田新八に託し、山口に派遣した(7月15日に到着)。長州側では予定されていた西郷来訪が無かった上に、薩土盟約を結び平和的路線をとると知らされたことで薩摩の真意を測りかね、直目付柏村数馬および参政御堀耕助を京都に派遣して情勢を探らせることとなった。柏村・御堀両名は7月27日に山口を出発、8月14日に小松帯刀邸で小松・西郷・大久保と会談する。 西郷はそこで京都で兵力を動かす時は電撃的に御所を包囲し、八月十八日の政変同様に反対派公卿を追放し、同時に会津藩邸と幕府兵屯所を襲撃、大坂・江戸でも同時に挙兵するという極秘計画を打ち明けるとともに、先述のごとく土佐との盟約による大政奉還建白は武力倒幕への大義名分を得るためのものであること、薩摩藩単独で倒幕に向かうことは決してないことを柏村に伝えた。 柏村はこの返答を得た後、18日にも大坂で小松・大久保と会談し、藩主茂久の出兵上京決定を確認すると、24日に帰国し長州藩へ報告した。すなわち薩土盟約締結後、後藤が土佐に滞在していた間にも、薩摩側は長州とともに武力倒幕する路線を進めていたことになる。
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