日清戦争後の国体論
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日本国内で保守的国粋主義が台頭しつつあるときに、日清戦争で日本が予想外の大勝を挙げ、日本人が自国の実力を認るようになると、日本のナショナリズムが盛り上がりを見せる。従来は国粋保存といっても漠然としたものであったが、日清戦争後は国粋主義の内容が明瞭になる。このため、この時代を自覚時代と呼ぶ者もいる。 日清戦争の勝利や治外法権の撤廃などを背景に、欧米の論理に囚われない日本独自の国体論が新たな形で登場する。すなわち、日本の国民を先祖を同じくする一大家族に喩え、皇室を国民の本家に位置付ける家族国家論が流行し始める。 1897年(明治29年)9月、穂積八束が『国民教育 憲法大意』を発行する。これは2年前に穂積八束が井上毅の指図を受けて執筆した小冊子であり、日清戦争中に井上毅が病死したことでお蔵入りになっていたものを、この時改めて出版したのである。その第2章「君主国体」で次のように説く。 国体は主権の所在により分かれ、政体は統治権の行動の形式により分かれる。特定の一人がその固有の力により国権を総覧し国を統治するものを君主国体と称する。憲法で国家統治の大則を定め、国会・政府・裁判所の統治機関を設け、立法・行政・司法の権を行うものを立憲政体と称する。我が帝国は君主国体にして立憲政体によるものである。 君主は固有の権力によって統治する。憲法の委任によって民衆の代表者として君臨する類いは、君主と称していても純正な君主制ではない。外国の歴史には皇帝を称して主権者でない例が往々にしてある。 君主は国権の全般を総攬する。統治権の本体と作用とを併せ持つということである。その一部を欠くものは君主制の本領ではない。憲法により統治の機関に国権の行使を司らせても主権は君主に存する。なぜならば君主国体における憲法は君主の権力によって制定したものだからである。 欧州で国体を論じる者は、君主は国権を国会と分つとか、あるいは君主は国権の本体であるが行使権をもたないとかいうことをもって立憲君主制の本領となすことがある。これは立憲君主を世襲の大統領と見なすものであって、純正の君主制ではない。 政体は国を統治する形式であるため、時勢に応じて変遷する。政体は憲法によって定まる。 我が国体は建国以来変更したことがない。政体の変更はあったが、常に純正な君主国体の模範を内外に示してきた。明治憲法の制定によりその基礎をますます固くした。 憲法は改正してよい。国体は変更してはならない。国体の変更は帝国の滅亡である。以上。 穂積八束は翌年6月に『国民教育 愛国心』を著す。日本の国体と先祖教との関係を説き、国家主義の気炎を揚げ、以下のように説く。 日本固有の国体と国民道徳の基礎は祖先教に淵源する。祖先教とは祖先崇拝の大義をいう。日本民族の固有の体制は血統団体である。固有の国民道徳である忠孝友和信愛は、祖先崇拝の大義を源流とし、血統団体の保持を手本とする。堅固な家国の体制は祖先教に基礎があり、これを千古に建て万世に伝えるのは民族の特質であり国体の精華である。 血統はこれを祖先に受け子孫に伝える。その団結は永久である。利害で離合断続するものではない。これを統一するのは祖先の威力である。家にあっては家長が祖先の威力を代表し家族に対し家長権を行い、国にあっては天皇が天祖の威力を代表し国民に対し統治権を行う。 父母を敬愛しこれに従順する至情をそのまま父母の父母に及ぼすべし。我らの祖先の祖先は天祖である。天祖は国民の始祖であり皇室は国民の宗家である。父母を拝すべし。ましてや一家の祖先を拝すべし。さらには一国の始祖を拝すべし。 人は信仰により行動する。限定された人智は宇宙の真理を知覚できないからである。我らの祖先は不死の霊魂があることを確信し、父母の威霊は幽界にあって子孫を保護すると確信してきた。これが先祖崇拝の大義の淵源であり、敬神が国教である所以である。 我らの固有の国体民俗は祖先の祭祀を最も重んじる。先祖崇拝の大義は国民の確信に出る。不朽の国体はこれにより基礎を建て、国民道徳はこれにより深厚である。この民を千古万世に保持するのは、この国体の精華である祖先教の力である。 国は個人の合衆であるという説は国史の事実に反する。国民は家族制によって分属する。家を合わせて国を成し、家籍を国籍の基礎とする。もし祖先教を打破し家族制を廃止することがあれば、皇室の神聖なる理由を侵犯する恐れがある。 国は統治権により保護される民族の団体である。天皇は統治権を天祖に受け皇胤に伝える。皇位は天祖の霊位である。天皇が国民を保護するのは天祖に対する任務である。国民が皇位に忠順であるのは天祖の威霊に服従するのである。 先祖教により構成された血統団体は社会の主力を崇拝する。このため法律の本源であるとともに教義の源泉である。崇拝には理由がある。迷信ではない。 外国の主権は強大であるために服従され、我が国の主権は神聖であるために敬愛される。以上。 こうした国家主義的風潮のなかで雑誌『日本主義』が発刊される。これより先、1897年(明治29年)5月に柴田峡治が稲垣乙丙、加藤弘之、湯本武比古、品川弥次郎ら数十名の賛同を得て大日本教会を組織した。その主義は「教育勅語を大経典とし、これを社会全般に普及し、感化の実績を収めんと欲す」ということにあった。大日本教会は1898年(明治30年)5月に機関誌『日本主義』を発刊し、その主義綱領を「日本主義によりて現今我邦における一切の宗教を排撃す。我が国民の性情に反対し、我が建国の精神に背戻し、我が国家の発展を阻害するゆえなり。しかしてこれに代えるに国家主義をもってするなり」、「君臣一家は我が国体の精華なり。これ我が皇祖皇宗の宏遠なる丕図(企画)に基づくものにして、万世臣子の永く景仰すべき所なり。ゆえに国祖および皇宗は日本国民の宗家として無上の崇敬を披瀝すべき所、日本主義はこれゆえに国祖を拝崇して常に建国の抱負を奉体せんことを務む」とする。 木村鷹太郎は日本主義のために最も努力した。その意見は1898年(明治31年)3月に公刊した『日本主義国教論』にあらわれている。同書に以下のようにいう。 日本主義は保守的国粋主義でなく、卑屈な外国崇拝でもない。日本の自我を守って生物学の原則に従い、外来の文物を我に同化し、自我を養い、自主の実現を期するものである。 まずは国教を定める。国教とは、国家が目的・主義・理想を定め、国民にその信奉を求め、その教育を努めるものをいう。つまり国民精神の統一である。そして国家が国民の精神を統一しようと思えば、思想・道徳・宗教・嗜好・祭礼節などを統一し、少しでも国家の目的と理想に合わないものは全て禁止する。特に宗教において国家主義の理想を害するローマカトリックやギリシャ正教やイエズス会などは厳禁する。国家の精神に反する自由は許可しない。 この意味においての国教は以下のものを基礎条件とする。国民性が表れ、国体と和合し、国家的であり、歴史上国体を汚したこともなく、国家的生物原理に適合するもの、 快活にして心身ともに健康であり、希望進歩の念を持ち、厭世悲哀を誘わないもの、 教理上も実践上も国体に従い、皇室と密接なる関係を有し、皇室に中心を置き、皇室を至上と崇めるもの、 精神の高尚優美を貴ぶと同時に、実際を重んじ質実を奨励し実力を養成することを教えるもの、 国民的国家的であるため祖国を愛し、平和を理想としても尚武の精神を有するもの、 健全な精神の美術を生み出し、教育的であって科学に反せず、迷信を唱えないもの、 女子を卑しまず、女子に相当の位置を認めるもの、 日本を世界の中心と考える、国民的自信、大抱負を有するもの。 我が国の歴史は全て以上の理想によって発展してきた。 我らの神とは、我ら国民の祖先とし、国家の至上とし、その徳、その至上権において、我らの理想として崇拝するものである。 以上のような思想を木村鷹太郎が『日本主義』誌上に掲げたところ、すこぶる反響が大きかったという。 高山樗牛も雑誌『日本主義』同人であり、木村鷹太郎とともに日本主義のために努力する。高山樗牛はその主張を雑誌『太陽』に続々と発表する。まず『太陽』明治30年6月号に「日本主義を賛す」と題して以下のように主張する。 本邦建国の精神と国民の特性をかんがみ、我らの国家の将来のため、ここに日本主義を賛する。日本主義とは国民の特性にもとづく自主独立の精神によって建国当初の抱負を発揮することを目的とする道徳的原理である。 我らは日本主義によって一部の宗教を排撃する。これを国民の性情に反対し、建国の精神に背戻し、国家の発展を阻害するものと見なす。 宗教とは現実に到達できない超自然的理想を思慕する信念である。西洋では宗教が文化に大きな影響を及ぼしたが、我が国ではそうでない。仏教も表面上行われたに過ぎない。 我が国民の思想は本来現世的である。多少幽界を観想することがあっても現世的思想に比べれば言うに足らない。社会的生活を尊び、国民的団結を重んじ君民一家・忠孝無二の道徳を維持するのは現世的国民として皇祖建国の偉大な企図を大成する運命を担う所以である。 宗教は国家の利益と矛盾する。国家は現世に立ち、宗教は来世を尊ぶ。国家は差別を立て、宗教は平等を説く。 国家は人類必然の形式である。人は一人で生息できずに家族を成し、家族だけで生活できずに社会を生じ、社会の上に主権を定めてこれを統御する。要点は民衆最大の幸福を企図することにある。この理想は仏教やキリスト教のような宗教と決して相容れない。これが日本主義を立てる理由である。 君臣一家は我が国体の精華である。これは皇祖皇宗の宏遠な企図に基づくものであり、万世にわたり臣子が永く仰ぐべきところである。ゆえに、国祖と皇宗は日本国民の宗家として最上の崇敬を受けるべきであり、日本主義は国祖を拝崇して常に建国の抱負を奉体しようと努める。以上。 高山樗牛は続けて「日本主義と哲学」「日本主義に対する世評を慨す」「世界主義と国家主義」「宗教と国家」「基督教徒の妄想」「国家的宗教」「国家至上主義に対する吾人の見解」「国民道徳の危機」等の論文を発表し、日本主義を高唱する。「基督教の逢迎主義」では、キリスト教が国体に迎合しようとするのを笑い、どれほど迎合しても抜本的に改変しない限り日本主義に容れることはできないと説く。また「我国体と新版図」と題して国家主義を論じ、君民一家の国体を次のように主張する。 我が国体が世界に冠絶することは、我ら国民が内外に誇るところである。この天下無双の国体は要するに君臣の特殊な関係に由来する。すなわち、国土は皇祖皇宗の創定したところであり、国民は概ね神孫皇族の末裔であり、皆この域内に生息し、一系の皇族に奉仕してきた。皇室は宗家であり、国民は末族である。建国当初の家長制度は二千五百年を経てその範囲を拡張したが、その本来の精神は変わらない。我が国体の特性はこの君民一家という国民的意識に起源する。 ある論者は、君民一家の国体について、これを重視すれば新版図の民を包含するのが難しくなると指摘して、これを非難する。この新版図の問題を如何するか。それは権力関係しかない。内に君民一家の鞏固な国体をつくり、その力をもって新版図に臨み、一面に仁恵を施すしかない。以上。 高山樗牛はまた「国粋保存主義と日本主義」と題して、明治20年後に起った反動的国粋主義と日本主義との違いについて次のように述べる。 国粋保存主義と日本主義は系統が同じだが内容が異なる。日本主義は世界の時局に対処し、国家の独立進歩と国民の安寧幸福を保全するため、適切な国民道徳を立てることにより人心を統一する。 縦は過去の歴史に成功や失敗の跡を訪ね、横は世界の大勢に興亡の理を求め、国体・民性を中心に内外の事物に対し精緻な考察を加え、これにより一国の思想を期する。 日本主義は、国家の独立と国民の幸福を保全するため、国体の維持と民性の満足を二大制約とする。この二大制約を中核として内外の文物に対し公平な研究を試み、その研究結果により取捨選択を行う。以上。 湯本武比古も雑誌『日本主義』の同人である。雑誌『日本人』明治31年3月号で発表した論文「日本主義を主張する」は日本主義流行の一面である。曰く、我らは日本主義を主張するといっても敢えてみだりに排外を主張しない。国体の精華すなわち国粋の保存を説くといっても敢えてみだりに自己を過大評価しない。旧来の陋習に恋々とすべきでなく、国家の文明富強を進め皇基を振起すべきため智識を世界に求める。ただし西洋の開化を学ぶのは、開化そのものが目的ではなく建国の精神を発揮するための方便である。我らはこの主意により日本主義を主張し国粋保存を説く。これを従来の偏狭頑固と同一視しないことを望む、と。湯本武比古はさらに「帝国主義」と題して曰く、近ごろ急に帝国主義が台頭したが、その意義には一定の説がない。我が国においては欧州の帝国主義をそのまま用いる必要がない。皇国主義すなわち帝国主義とすれば、憲法発布勅語の旨を奉体すれば間違いない、と。 日本主義は、強烈な反響を呼んだが、次のような多少の反対論もあった。 姉崎正治いわく、日本主義はその根拠を歴史研究で証明すべきだが、今のところ外形のみを宣揚して内実を示していない、と。 早稲田文学記者いわく、日本主義には、熱誠も無く、理想も無く、人物も無い、と。 中島徳蔵いわく、日本主義は未だ理論的根拠がない、と。 釈雲照は、日本主義の宗教排斥に対して、仏教の立場から反駁した。 当時、日本主義の勢力は強烈であった。例外として久米邦武が1899年(明治32年)2月に、国体論なるものは恋旧心から起った迷想であると断言したこともあったが、世間一般に日本主義的理想をもって国体観を発表したものが多い。たとえば同年の加藤弘之「日支両国の国体の異同」、林甕臣『帝国教典』、1900年(明治33年)鳥尾小弥太『人道要論』、1901年(明治34年)小柳一蔵『人道原論』などがある。同年、湯本武比古と石川岩吉の共著『日本倫理史稿』は建国神話を叙述し「この国体は即ち我が国家主義の倫理思想を胚胎し来たるものなり」と述べる。
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