日清戦争従軍紀念碑とは? わかりやすく解説

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日清戦争従軍紀念碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 09:14 UTC 版)

明治天皇駐蹕御趾」の記事における「日清戦争従軍紀念碑」の解説

この碑は、『誓い御柱』の北側自然石石組みの上建てられている。明治35年1902年8月日清戦争従軍記念して建立されたものである現在地には大正15年1926年8月移築された。移築前の碑の所在場所は不明である。 碑の題字元帥陸軍大将大山巌であり、当時陸軍参謀総長であった大山は、明治23年の大演習時は陸軍大臣であり、明治天皇随従白山台上から大演習観戦している。大演習時に内閣総理大臣であった山縣有朋日清戦争には第一軍司令官として従軍し大山第二軍司令官として従軍した碑文乙川小学校林和三郎の撰、書は中川南厳で、『駐蹕御趾』の碑陰文の撰者と書家は同じである。 「従軍紀念碑」には校長の撰になる碑銘従軍25名が刻まれている。「新修半田市誌」(中巻)には、明治28年1895年7月乙川八幡社凱旋祝賀会催され7月14日臨時祭礼が挙行されたと記されている。 この碑の裏面に碑建立発起人23名の氏名刻まれており、その中には数名従軍者の氏名見られる。また建設委員には、関武三郎山田長作竹内九郎杉浦富輔という地元乙川村有力者の名が刻まれている。碑の建立乙川村挙げての大事業であったことが窺える日清戦争での乙川村からの従軍者に戦病死者はなかったが、後年日露戦争では乙川村従軍105名のうち戦死者17であった日清戦争の「従軍紀念碑」が建立されたのに対し日露戦争従軍記念碑建立されなかったのは、戦死者多さ慮ってのことであろう下記に、碑に刻まれた「従軍紀念碑」銘について碑銘そのまま記す。なお旧字体漢字常用漢字改めた従軍紀念碑銘 乙川小学校林和三郎明治廿七年 皇師清国渝盟之罪戦勝攻取海陸席巻軍亘両歳清国悔過之遣重 臣講和大軍凱旋使国家威武宣揚於八表此雖固由 聖朝威霊兵士忠勇𡈽與 有力焉此役也乙川郷民従軍者廿五人以功賜賞有差頃郷民欲建碑垂範後昆 碑余銘銘日 其旗正正 其陣堂堂 討罪正名 我武維揚 豈図彼我 本為唇歯 鷸蚌之争 恐漁之利 投赴火 万人一心 有凌我者 其利断金 糺忠克毅 常執厥一 龍驤虎変 猶期他日南厳中川衡憲書 碑銘に記され漢詩の「鷸蚌 (つぼう) 之争 恐漁夫利」は、第三者に利を取られる争いになることを恐れるという意である。まさに日清戦争結果戦時賠償として清国から割譲された遼東半島の露・独・仏による三国干渉での清国への還付をしたことを指す。漢詩末尾の「猶期他日」は三国干渉受けた雪辱を果たすため、臥薪嘗胆合言葉として富国強兵励んだ当時日本国民気持ち表したのである。 「従軍紀念碑」が建立されたあたりには大正末年頃まで、「天王西古墳」があったと「半田市誌」に記述されここから出土品有蓋高坏直刀半田市立博物館保存されているが、「従軍紀念碑」移築のため、整地されて古墳消失した考えられる

※この「日清戦争従軍紀念碑」の解説は、「明治天皇駐蹕御趾」の解説の一部です。
「日清戦争従軍紀念碑」を含む「明治天皇駐蹕御趾」の記事については、「明治天皇駐蹕御趾」の概要を参照ください。

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