日清戦争従軍紀念碑
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「明治天皇駐蹕御趾」の記事における「日清戦争従軍紀念碑」の解説
この碑は、『誓いの御柱』の北側に自然石の石組みの上に建てられている。明治35年(1902年)8月に日清戦争従軍を記念して建立されたものである。現在地には大正15年(1926年)8月に移築された。移築前の碑の所在場所は不明である。 碑の題字は元帥陸軍大将大山巌であり、当時は陸軍参謀総長であった。大山は、明治23年の大演習時は陸軍大臣であり、明治天皇に随従し白山台上から大演習を観戦している。大演習時に内閣総理大臣であった山縣有朋は日清戦争には第一軍司令官として従軍し、大山は第二軍司令官として従軍した。 碑文は乙川小学校長林和三郎の撰、書は中川南厳で、『駐蹕御趾』の碑陰文の撰者と書家は同じである。 「従軍紀念碑」には林校長の撰になる碑銘と従軍者25名が刻まれている。「新修半田市誌」(中巻)には、明治28年(1895年)7月に乙川八幡社で凱旋祝賀会が催され、7月14日に臨時祭礼が挙行されたと記されている。 この碑の裏面に碑建立の発起人23名の氏名が刻まれており、その中には数名の従軍者の氏名も見られる。また建設委員には、関武三郎、山田長作、竹内惣九郎、杉浦富輔という地元乙川村の有力者の名が刻まれている。碑の建立が乙川村を挙げての大事業であったことが窺える。 日清戦争での乙川村からの従軍者に戦病死者はなかったが、後年の日露戦争では乙川村の従軍者105名のうち戦死者は17名であった。日清戦争の「従軍紀念碑」が建立されたのに対し、日露戦争の従軍記念碑が建立されなかったのは、戦死者の多さを慮ってのことであろう。 下記に、碑に刻まれた「従軍紀念碑」銘について碑銘をそのまま記す。なお旧字体の漢字は常用漢字に改めた。 従軍紀念碑銘 乙川小学校長 林和三郎撰 明治廿七年 皇師討清国渝盟之罪戦勝攻取海陸席巻軍亘両歳清国悔過之遣重 臣講和大軍凱旋使国家威武宣揚於八表此雖固由 聖朝威霊而兵士之忠勇𡈽與 有力焉此役也乙川郷民従軍者廿五人以功賜賞有差頃郷民欲建碑以垂範于後昆 碑余銘銘日 其旗正正 其陣堂堂 討罪正名 我武維揚 豈図彼我 本為唇歯 鷸蚌之争 恐漁之利 投水赴火 万人一心 有凌我者 其利断金 糺忠克毅 常執厥一 龍驤虎変 猶期他日南厳中川衡憲書 碑銘に記された漢詩の「鷸蚌 (つぼう) 之争 恐漁夫利」は、第三者に利を取られる争いになることを恐れるという意である。まさに日清戦争の結果、戦時賠償として清国から割譲された遼東半島の露・独・仏による三国干渉での清国への還付をしたことを指す。漢詩末尾の「猶期他日」は三国干渉で受けた雪辱を果たすため、臥薪嘗胆を合言葉として富国強兵に励んだ当時の日本国民の気持ちを表したものである。 「従軍紀念碑」が建立されたあたりには大正末年頃まで、「天王西古墳」があったと「半田市誌」に記述され、ここからの出土品の有蓋高坏と直刀は半田市立博物館に保存されているが、「従軍紀念碑」移築のため、整地されて古墳が消失したと考えられる。
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